2016年12月14日

「慰安婦」問題


大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか―メディア・NGO・政府の功罪 』を読む

慰安婦問題とは何だったのか.jpg


本書は,アジア女性基金の設立とその経緯に終了までずっと携わった著者の総括の書である。

「わたしは,1995年に村山内閣の下でアジア女性基金の設立にかかわり,それ以来元『慰安婦』の償い事業に与ってきた。本書でわたしは,『慰安婦』問題をテーマとして,公共性の担い手としてのメディアとNGOの意義と問題性,そして歴史認識をめぐる韓国や中国とのつきあい方について,読者とともに考えたい。『慰安婦』問題と歴史認識をめぐるメディア,NGO,関係国政府,アジア女性基金の絡み合いを,こうした視角からできるだけ醒めた目をもって再現したい。」

とし,その動機を,

「1995年,村山富市内閣が『慰安婦』問題解決の一環としてアジア女性基金を設立したとき,わたしはそれに深くかかわり,基金の呼びかけ人,理事として,『慰安婦』問題の解決のために時間と精力を費やしてきた。基金が日本国民からの償い金,総理のお詫び手紙,医療福祉支援費を個々の被害者に届けるというかたちで被害者への償いを実施ているあいだは,一人でも多くの被害者に日本国民のお詫びと償いの気持ちを伝え,被害者のいくばくかの支えとなることが,わたしにとってもっとも重要な課題であった。
 この間,日本でも韓国でも,また他のアジア諸国や欧米でも,『慰安婦』問題について事実を歪曲した報道や主張,わたしからみて疑問と思われる議論が横行した。元『慰安婦』の意思や希望についてきわめて一面的な主張がなされ,それがそのまま『被害者の意思』として報道された。アジア女性基金はしばしばそうした誤った主張,偏った報道にもとづいて非難され,それが被害者への償いをさらに困難なものにした。(中略)
 アジア女性基金の償い事業が終了し,2007年三月に基金が解散して,状況がかわった。元『慰安婦』のプライバシーにかかわる問題を除けば,これまでメディアで報道されてこなかったことをあきらかにし,これまで有力に主張されてきた見解の誤りを指摘し,『慰安婦』問題に当事者としてかかわり,同時に現代史の観察者として目の前で観てきた『慰安婦』問題の像をわたしなりに示すことができる,そういう時期がきた,とわたしは考えた。その結果が本書である。
 本書は,このようにアジア女性基金の一員として元『慰安婦』への償いに携わった過程で体験し,考えたこと,またひとりの国際法学者,現代史の観察者,日本の戦後責任を考えてきた者として見聞きし,考えてきたことにもとづく現代史の覚え書である。本書を通して読者に『慰安婦』問題の複雑な諸相を提示するとともに,将来こうした深刻な問題が生じた場合,すこしでもましな対応をとることができるように,一人ひとりがじっくり考えていただきたい。それが本書を執筆した動機である。」

だからこそ,著者は,

「本書でわたしがめざしているのは,『慰安婦』問題をめぐる日本と韓国双方の政府,NGO,主に日韓の新聞やテレビなどのメディア,さらにアジア女性基金がやってきたことややらなかった,あるいはやれなかったことを示し,そうした作為・不作為のなかで問題の解決に役立ったこととマイナスに働いたことをありのままに提示し,それへのわたしの評価をあきらかにすることである。それによって,将来日本に再び『慰安婦』問題のような重大な政治・社会・外交問題が生じた場合,日本の一員として取るべき態度について考える手がかりを読者に提供したいと思う。」

と,その意図を明確に書いている。その背景にある,著者の,

「『慰安婦』問題をつくりだしたのは過去の日本だが,日本という国は政府だけのものではない。国家とは,国民の一人ひとりが過去を引き継ぎ,現在を生き,未来を創っていくものである。戦後五〇年という時期に全国民的な償いをはたすことは,現在を生きるわたしたち自身の,犠牲者の方々への,国際社会への,そして将来の世代への責任ではないか。」

という覚悟を重く受けとめる。この覚悟を,今やほとんどの人が失っている。過去からは,絶対に逃げることはできない。安倍談話にあった,

「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」

という言葉ほど,過去を背負うという覚悟からいかに遠い言葉であることが,よく分かる。

歴史認識,

と責められるとき,過去の重荷や過去の罪科を背負うのを逃れたり,言い訳したりしていると見えた時であるに違いない。われわれは,日本国民である限り,永遠に,過去から逃れることはできないと思う。だから,著者が,

「左右いずれであれ,実証的な研究を顧みず,みずからの思い込みにもとづいて煽動的な議論を重ねる人々とは対話と議論が成り立たない。その意味で,『慰安婦』問題について,実証的基礎もないまま元『慰安婦』を売女呼ばわりする『論客』は,まともな議論の対象にならない。本書で『慰安婦=公娼』論への言及と反論がすくないのは,それをよしとしているからではなく,およそ学問的議論の対象にならないと考えているためである。」

と述べた,一笑に付すべきそうした論が,二〇年後,上記の文言を談話として口にした首相が公然とすることになる。メディアも,また同然である。村山内閣という,いま考えると奇跡のような,自民・社会・さきがけの連立内閣という政権だったからこそ,できたことだし,まだしもまともな議論ができた時代なのだと,つくづく思う。いまや,こうした議論さえ,はるかな奇跡に見える。

その著者が本書で展開した論旨は,

「『慰安婦』問題は,戦争,性,政治,法,道義など,人間の多様な面とかかわり,多様な視点から捉えることができる。書かれた本も多い。ただ,これまでこの問題について書かれた本は,ひたすら日本の政府や社会を告発・批判するか,『慰安婦は公娼だった』といった立場からそれに反論するタイプのものが大部分を占めていた。」

それに対して,第一に,

「『慰安婦』問題には,二一世紀の日本が政治,経済,教育,環境など,さまざまな問題に立ち向かっていくうえできわめて重要な問題が隠されていた。それは,こうした問題を解決するうえで,日本がメディアやNGO…など,二〇世紀後半に大きな影響力をもつようになった主体を通して,どのような姿勢で社会問題や政治問題にかかわるべきか,という問題である。」

世論を左右するメディアやそれに係るNGOのあり方に踏み込んでいること(それがサブタイトルの主旨だ),そして,

「みずからが政治に関与する主体であり,政治では結果責任が問われるという意識が希薄だった」

と,厳しく批判し,そうした,

「公共性の担い手のあるべき姿は何か」

と問いかけていること。第二に,

「『歴史認識』をめぐって中国,韓国といった,日本の侵略戦争,植民地支配の『被害国』とのつきあい方はいかにあるべきか,という問題である。」

特に,

「韓国では,『慰安婦』問題は日本への不信と猜疑という反日ナショナリズムの象徴と化した。」

ここで,メディア・NGOは,

「韓国と日本の多くのNGOは,問題の本質は人間の尊厳の回復であってお金ではないという『正論』をひたすら主張した。…マスメディアによって単純化され,聖化された被害者像が日韓の社会を支配し,こうした像と異なる解決は聖なる『被害者の声』に反するとして排除された。他方,『何度謝ってもまだ足りないと言われる』ことに苛立つ日本の一部のメディアは,元『慰安婦』を『売春婦』呼ばわりする感情的な議論を爆発させた。そうした感情的な議論は韓国に大々的に伝えられ,韓国国民の感情をさらに硬化させた。
 こうして,韓国の反日ナショナリズムと日本の嫌韓感情の悪循環が日韓関係を覆った。」

二〇年後も,一向に変らぬ悪循環は,続いている。「結果責任」とは,これをいう。マイナスイメージの日本像は,払拭されるどころか,何かことがあるたびに,

「政府部内では『負け戦は戦わない』という『大人の知恵』論が主張され,…弥縫策の積み重ねでは,将来また問題が再発した時,また同じような対応をしなければならない。それでは,『「慰安婦」問題の解決を怠った日本』というマイナスイメージは永久に改善されることはないだろう。」

という十年前の予言は,そのままいつまでも予言であり続けるようだ。

参考文献;
大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか―メディア・NGO・政府の功罪 』(中公新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
posted by Toshi at 05:09| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください