2017年01月03日

武士道


三田村鳶魚『武家の生活』を読む。

武家の生活Ⅱ.jpg


「武士道とはいかなるものか」

と言われれば,

「『それは義理ということだ』と私は思う。これが最も直截簡明だと思うのである。」

と,著者,三田村鳶魚は言い切る。義理については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/441727637.html

で触れたが,本来の意味は,

善悪の心の道筋,

日本でも,

「古くは,物事の正しい筋道の意で,《今昔物語集》や《愚管抄》にその用例が見える。また,文章やことばの〈意味〉という使われ方もあった。中世末期の《日葡辞書》には,すでに,〈良い道理〉とともに〈礼儀正しさ,律義さ〉という意味があげられているが,この言葉が,対人関係上,守り実践しなければならない道義をさすものとして特に重んじられるようになるのは,近世社会においてである。近世初めの儒者林羅山は,〈人ノ心ノ公平正大ニシテ,毛ノサキホドモ人欲ノ私ヲマジヘズシテ,義理ヲ義トスルハ,義ゾ〉(《春鑑抄》)といい,〈義理〉を儒教の〈義〉と結びつけ,世俗的な人間関係における絶対的な道義とした。」(『世界大百科事典 第2版』)

とあり,それが,「義理を欠く」という意味に変って,

「村社会における相互関係を維持するために定められた行為。この義理を欠く者は,村八分という制裁を受けることもあった。親戚の間で果されるものと,村社会に対して果さなければならないものとに大別される。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)

ということになる。ほぼ,個人から見れば,しがらみ,と同じに変わった。

著者は,武士道について,

「戦国時代の末期における、軍書・戦記・随筆などの中には、『武辺吟味』とか、少し遅れて『男の道』というような 言葉が散見されるが、『武士道』なる言葉は全く見当らない。仁斎・闇斎時代にも、まだ『武士道』なる成語は生れて いなかった。室鳩巣が赤穂浪士の快挙を初めて執筆したが、鳩巣も、赤穂浪士のことを『義人』と呼び、その著書の標題を、『義人録』と命名した。武士道という言葉は用いていない。一般がボツボツと『武士道』という言葉を用いだしたのは、元禄以後であって、普遍的に『武士道』という言葉が一般の用語として認められだしたのは、享保以後のことである。」

と書く。それは,武士がただ農工商のうえに乗っかって惰眠をむさぼり,経済的に困窮化し始めた時期と重なる。たぶんに,自己弁護,自己正当化として,武士道を言い立てているように見える。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163232.html

でも取り上げたが,氏家幹人は,

「戦乱の世が終わり,武将が大名に昇華して,徳川体制に組み込まれた。その過程で,戦士の作法であった男道はすたれ,治者あるいは役人の心得である武士道へと様変わりする。爾来,武士は総じて非武闘化し,代わって,武家屋敷側が傭兵のように雇った,供回り,駕籠かきに委託した。次第に彼らは武士を軽視し,武家も彼らの命知らずの行動に危機感を抱きながら,ある種賞嘆の感情を抱くようになる。」

ここで言う,「男だて」の「男」とは,「士」のことである。いつの間にか,その男立が,ヤクザもどきの方に転移し,滑稽なことに,その堕落した武士に変わって,馬鹿な男伊達を競う連中の侠気を,侍が真似る,という事態にいたる。

幕末の開明的官僚,川路左衛門尉聖謨は,こう日記に書いている。

「一体無宿又は非人等関東の博徒は可惜(おしむべき)もの多,上(かみ)かたの盗賊は,死するといふことはしりながら網のかかるまで先(まず)甘美軽暖の事によを過すか,百年生て乞人たらむよりは盗人と成てわかくして被殺(ころさる)かましといふかこときもの共にて,入墨後の盗なと少しもおしつつますみないふ也,死をみる如帰(きするがごとく)に人とは不思議也。」

鳶魚も,武士道の謂れについて,

「戦国末期の『武辺吟味』というのは、弓馬・剣槍、あるいは鉄砲等の武器に関することで、主として戦場における働き、すなわち、軍事上における働きの場合に用いられたものであって、今日いうところの武士道ではなく、むしろ、 兵書・兵学に属するものであった。吟味は今でいう研究という言葉に相応するものだ。それよりも、『男の道』の方が『武士道』には近い。『そうしては男の道が立たない』というようなことは、『武士道が立たない』というのと同一の意味で用いられた言葉だ。故に、もし『武士道』なるものの語原的詮索をするとしたならば、武士道の母胎は『男の道』であって、これから、武士道なる言葉が転化し発生 したもの だ、ということが出来る。」

男立が,いまや侠気にしか使われないのなら,

「武士が単なる偶像化されたる『人間の見本』であったり、あるいは、『人間の理想化』であっては、『武士道』甚だ愚なるものである。」

と鳶魚も断定する。そして,

「古歌にこうしたものがある。
 船の道 船の道とて道もなし船 ゆく道が船の道 なり
ひきよせて結べ ば草の庵 にてほどけ ばもとの野原なりけり
ひきよせて結べ ば草の庵 にてとかね どもとの野原なりけり
実に味わうべき意味深い歌である。 武士道詮索も、まずこの『道』より出発しなければいけない。そして、武士道 というその道も、結局この古歌のごときであると、私は断じたい。武士道という道はない。しかし武士道は厳存する。(中略)『道』とは、『万人が踏んでゆくところの道』であらねばならない。武士道もまたしかりである。武士道という道があって武士道が生じたものではない。武士道もまた、この道路のごとき、あるいは『船の道』『草の庵』の古歌 のごときものである。」

と。だから,武士道とは,

義理,

すなわち,

善悪の心の道筋,

なのであろう。

では,本来の武士の道とはどんなものだったのか。鳶魚は,

戦国時代と戦国以後,
戦国以後でも、直後から江戸の初期 に至る間と、後期 ,

と分けて,武士道の変遷を書く。戦国時代は,

「屍山血河の中に生れ、そこに育ち、そこで成長した。故に、絶えず心に不安があった。(中略)戦国時代の武士道は、 禅味を帯びていた。宗教心が強く、彼等を支配した。生きるも死ぬるも義理からであり、武士を捨てれば生きていられないというように 宗教 的であった。それが戦国武士の武士道であり、信念であった。」

戦国時代以後、徳川の初期時代においても,この武士道信念は,伝統的に当時の武士の心理を支配したが,江戸時代、殊に中期より後期にかけては、平和時代がずっと打ち続いたために,

「刀は鞘に納まった。武張ったことよりも、人心は享楽を追うことに忙しくなった。尚武の気風は衰えて、元禄時代の華美な世界が展開され、両刀は武士の表道具にほかならなかった。実に泰平の謳歌時代である。故に、武士道でも、『武士なるが故に武士道を立てる』、あるいは伝統的にこれを墨守するというようになった。すなわち、よくいうところの『 刀の手前』であった。『刀の手前、武士道 が相立たぬ』というようになった。更に換言すれば、『武士としての栄誉のため に』であった。」

と変る。つまり,

「全く武士という名のために、看板のために、武士道というものが必要であり、その必要から強調された。そこに戦国時代と江戸時代との 間に、深い溝渠がある。」

最早,ただの看板,武士の自己正当化のために必要な道具に変わった,ということになる。本来の,義理,つまり武士道の例を,鳶魚は一杯あげているが,一例は,

「戸次紹運という九州豪傑が、名嶋の城にいて、薩摩の兵を受けたことがあります。その時に紹運が、自分の墓所はこの城である、お前達の中で、年取った親が立花におり、他に養うものがない者は立花に帰れ、兄弟ともにここにあるものは、 一人だけ帰って父祖の姓を絶さぬようにしろ、どうせ薩摩の大軍を相手にするのだから、討死するにきまっている、遠慮なく帰ったがいい、と言った。立花というのは立花城のことで、ここには養われた紹運の息男飛騨守宗茂がおったのです。ところが、この下知を聞いて、それでは私は帰ります、という者は一人もない。三百人もいたのが、ことごとく討死 してしまった。
この下知の裏は、一人でも帰るな、ということなのですが、もしその通り、帰るな、討死しろ、と言ったらどうなるか。放ったようで捉えるのがここなので、頼んでいる人が討死するという場合に、これを見捨てて行くことはどうも出来ない。そこが義理です。これが武士道の一道の光明となってゆくところのものなのです。
 名嶋の城にいた者は、皆討死したのですが、紹運はその中の一人を呼び出して、お前はこれから立花に帰って、この有様を話せ、名嶋が落ちれば、敵はすぐ立花へかかるに相違ない、 急いで行け、と言って命じた。どうしたものか、 この人の名が知れませんが、これが立花へ駆けつけて、名嶋の状況を報告しました。波のごとくに押し寄せる大軍を相手に、存分の働きをして死ぬことでしょう、もう間もなく薩摩の兵は御城下まで迫ってまいりまする、と言って使命を果した後、今討たれようとする主を捨て、共々に討死と覚悟した友達を振り捨てて、ここまで来るべき心もないが、軍事上の大事は伝えなければならぬ、その道理に迫ってまいりましたが、役目を果してしまえば、何の未練もない、逃れることの出来ぬ中を逃れて来るのさえ、面目ないと思うのに、その上にまだ生きているわけにゆかぬ、と言って、旅装束も解かず、すぐ 自殺してしまいました。これ が武士の義理であります。」

あるいは,

「摂津国に割拠しておりました和田伊賀守が、五六の要害に立て籠って、荒木村重に対抗している。村重の方は、もう信長についてしまったので、隣同士で戦争しているのですが、元来荒木の方が大きな身分で、三千五百くらいの兵がある。和田は僅かに八百くらいしかないけれども、地の利を得ているために、いつでも少い兵をもって、多い荒木の兵を困らしておりました。あまりいつも勝つので、いい気になって、もう少し押し出そうというので、三里ばかりある馬塚というところまで出て来た。その時に、斎藤道三の甥で、和田の客分になっておりました永井隼人が、馬塚へ出張るというのを聞いて、大変に諌めた。三里だけれども、馬塚までお延びになれば、もうそうは行かない、お止めなさい、と言って止めたのですが、和田には驕る心持が出て、敵を甘く見ているから、なかなか聞かれない。そこで永井は和田と一緒に行って、あれだけ言葉を尽して利害を説いても、お聞きなさらぬ上は、何とも仕方がない、私も身を避けようとは思わ ぬ、年来お世話を受けたあなたに一命を与えて、これままでの恩誼に報いるほかはありませ ん、といって永井はここで討死した。和田も勿論敗死したのです。さんざん諫めても言うことを聞かぬのだから、一応義理が立ったようなものだが、これまで永いこと世話になったというところに、義理を持つ。これが義理なのです。」

もちろんこれは,選択である。おのれの

善悪の心の道筋,

として,もう少し突っ込めば,

倫理,

としてである。倫理とは,

いかに生きるか,

である。だから,武士道とは切腹と短絡するのは笑止である。

「武士が切腹をするということには、二通りの意味がある。その一つは、自分の犯した罪科とか過失とかに対して、自ら悔い償うためには、屠腹するということであり、今一つは、申し付けられて、その罪を償うということである。そして、そのいずれにしても、切腹は自滅を意味する。(中略)切腹は、…武士に対する処決の一特典にしか過ぎない のである。ただ自らその罪に対する自責上、切腹して相果てるというその精神だけは武士道に咲いた一つの華と言っ てもよいが、武士道の真髄ではあり得ない。」

したがって,他人の忖度とは無縁である。しかし,では,これが男だけか,と言えばそうではない。吉宗の時代,松平(浅野)安芸守吉長の夫人,つまり,

「御内室は、加賀宰相綱紀卿の御息女也、生得武勇の心ある女性にて、乗馬打物に達し、殊に長刀鍛錬の聞えあり、召仕はるゝ女まで皆々勇気たくましく、殊に一騎当千の女とも いうべし」

という女性だったが,安芸守吉長が,吉原に通い,

「三浦屋四郎右衛門抱えの太夫花紫、同孫三郎抱えの格子歌野を落籍させて、屋敷へ引き取られました。その上に、 芝 神明前の陰間を二人までも請け出されました。(中略)請け出された遊女二人、陰間二人を、御帰国の節は、お供に召し連れられることにきめられました。(中略)こうなっては、夫人も、重ねて強諌なさらなければ済まない、と思し召したものか、外君に御対面なされ、大名が遊興のあまり、遊び者を請け出さるることも、あるまじき次第とはいわれまじけれども、永々の道中を国許まで召し連れらるることは、世間の耳目といい、殊には幕府への聞えもいかがなれば、これだけは何分にもお取止めなさるように、と切に進言されました。吉長朝臣は、この進言が大不機嫌であったという。」

結局夫人の諫言を聞き入れず,

「遊女・陰間が美々しい行装で、お供 する」

ことになって,夫人は,

「お居間に夜闌くるまで燈火あかあかと照して、御弟加賀中将へのお文細々とお認めなされ、 五十 一 歳を一期として、腹一文字に掻き切りて」

割腹するのである。その間のことを,鳶魚は,こう書く。

「武士の家では、自由恋愛などいうことはなく、それは不義者で成敗されます。決して、好いたの惚れたのという話はない。勿論、生理上必至なものとして婚姻するのではありません。夫婦は生活を愉楽するためではない。人道を行うために夫婦になったので、それはその家門を維持し、かつ繁昌させるため、当面に親を安んじ、子を育て、九族を和し、家風を揚げ、家名を輝かせる大切な戮力なのです。(中略)恋愛から出来た夫婦でなく、義理が仕立てた夫婦で あった。互いにその一分を尊重する。それを蹂躍することは、他身を踏み潰すのでなく、 自身を破毀するのだと思っ ておりました。 吉長夫人前田氏も、外君の内行について、至当な進言が棄たるようになった時、婦道が立たなくなり ます。もし特別な秘密があってのこととしても、何とか夫人からの進言の出ぬように打ち開けられないにもせよ、相応な工夫がなければなりません。一旦進言が出ますと、一般に至当と見られることだけに、是非とも聴納されなければなりません。悋気とか嫉妬とか、そんなこととは違う。一身一己からのことでない。 天下に公然たる婦道を行うの です。夫婦の間に局限した事柄ではありません。人間を維持する道義です。至当なことさえ聞かれない。それでは婦道が行えないとすれば、この頃しばしば承る面子などということとも違う。妻の一分が立たないとは倫理がすたること、女に生れて妻となる、夫にはなれない、そこに動かし難いものがあって、 妻としてなすべきその職事は、天に受けた私ならぬ務めなのです。これを真ッ正直に考える、それを少し考え、あるいは全く考えない、時世の人は、少し考える者よりも、全く考えない者の方 がはるか に多かったのです。」

武士道とは,

義理である,

とはこのことである。

武士の一分がたたない,

のと同じである。

この武士道でいう「義理」は,「義」とは違う。『孟子』に,

惻隠の心は,仁の端(はじめ)なり,善悪の心は,義の端なり,辞譲の心は礼の端なり,是非の心は,智の端なり」

とある。「善悪の心は,義の端なり」には,武士道の「義理」の関係性とは違う。似ているようで違う,と思う。

士は己を知る者のために死す,

の「士」と「侍」が微妙に違うように,それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/411864896.html

で触れた,文天祥の,

天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
沛乎として滄溟に塞つ
皇路清く夷(たい)らかに当たりて
和を含みて明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見(あら)われ
一一丹青に垂る

という「正気の歌」にある,おのれ一個の気概の担うものの大きさの差かもしれない。しかしそれは個としての私的な気概ではない。『論語』の,

士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て以て己が任となす。亦重からずや。死して後已む。また遠からずや。

の「士」もまた然りである。関係性としての「心の筋」は,「私」である。「士」の背後にあるのは,『孟子』の,

「惻隠の心は,仁の端(はじめ)なり,善悪の心は,義の端なり,辞譲の心は礼の端なり,是非の心は,智の端なり」

と,一貫する「公」の思想である。「公」とは,「志」である。「志」とは,すなわち,目的の謂いである。この差は,大きい。

参考文献;
三田村鳶魚『武家の生活』 [Kindle版]
氏家幹人『サムライとヤクザ』(ちくま文庫)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:08| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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