2017年01月09日

易経


高田真治・後藤基巳訳『易経』を読む。

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四書(『大学』『論語』『孟子』『中庸』)五経(『詩経』『詩経』『礼経』『易経』『春秋経』)の一つ,『易経』の訳である。かつて,荘子が,

「詩,書,礼,楽,易,春秋」

を六経と挙げ,

「詩はもって志を道(い)い,書はもって事を道い,礼はもって行いを道い,楽はもって和を道い,易はもって陰陽を道い,春秋はもって名分を道う」

といったように,

「詩,書,礼,楽,易,春秋を王道の基づくところ,儒家の経典としている。」

とある。礼記には,

「孔子曰く,その人となりや,温柔敦厚なるは詩の教えなり,疎通知遠なるは書の教えなり,広博易良なるは学の教えなり,絜静精微なるは易の教えなり,恭敬荘敬なるは礼の教えなり,属辞比事なるは春秋の教えなり」

と。本書は,

「易はまたは周易といい,これを経典とし尊んで易経と称する」

もので,

「陰陽八卦を基本として成る六十四卦をもって構成されたものを二経に分かち,さらにこれを十翼すなわち彖伝(たんでん)上・下,象伝(しょうでん)上・下,繋辞伝(けいじでん)上・下,文言伝(ぶんげんでん),説卦伝(せっかでん),序卦伝(じょかでん),雑卦伝(ざっかでん)の十篇を加えて一書としたものである。」

易と孔子との関係については,『論語』に,

「我に数年を加し,五十にして以て易を学べば,以て大過なかるべし」

とある如く深い関わりがあり,十翼が孔子によって書かれたとする説は今日否定されているが,

「中庸にいたっては十翼の思想に類するものがはなはだ多く,…趙岐の孟子章句序に依れば,孟子は最も易に深い者と称せられ,荀子にいたっては易に論及することがはなはだ多く,かつ易の伝播が孔子の門流によってなされたこと等を思えば,孔子ならびにその門流によって研究せられて,古来占筮の書であった易が,漸く義理修養の書として重んぜられるに至った経路を想像するに足りるのである。十翼の思想の中には孔子の思想と相一致するものがあり,また相類するものも少なくないのであって,たとえ十翼が孔子自ら筆を下して作ったものでないとしても十翼は孔子門流,特に子思,孟子の学派の手によって成り,その中には孔子の思想が含有せられているものとみてさしつかえないであろう。」

と。そして,

「十翼のうち彖象二伝の文が最も簡奥で,春秋,論語の文に近く,繋辞,文言がこれに次ぎ,その文章内容は中庸,孟子に類し,その製作年代は,おそらく中庸と相前後する戦国の時にあるであろう。序卦,説卦,雑卦等はずっと下って漢初の易学者の作ともいわれている。」

と(以上本書解説(高田真治)による)。

確かに,易に不案内のせいもあるが,読んでいて,その世界観が面白く展開されているのは,繋辞伝上・下である。たとえば,

「易は天地を準(なぞら)う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観,俯してもって地理を察す。この故に幽明の故を知る。始めを原(たず)ね終りに反る。故に死生の説を知る。精気は物を為し,遊魂は変を為す,この故に鬼神の情状を知る。
 天地と相似たり,故に違わず。知万物に周(あまね)くして道天下を済(すく)う,故に過たず。旁(あまね)く行きて流れず,天を楽しみ命を知る,故に憂えず。土に安んじ仁に敦(あつ)し,故に能く愛す。
 天地の化を範囲して過ぎしめず,万物を曲成して遺さず。昼夜の道に通じて知る。故に神は方なくして易は体なし。」

と。その天地は,

「天は尊く地は卑しくして,乾坤定まる。卑高もって陳(つらな)り,貴賤位す。動静常ありて,剛柔断(わか)る。方は類をもって聚(あつ)まり,物は群をもって分かれて,吉凶生ず。天に在りては象を成し,地に在りては形を成して,変化見(あらわ)る。」

ということだが,乾坤は,男女に準えられる。

「乾道は男を成し,坤道は女をなす。乾は大始を知(つかさど)り,坤は成物を作(な)す。乾は易(い)をもって知(つかさど)り,坤は簡をもって能くす。易なれば知り易(やす)く,簡なれば従い易し。知り易ければ親しみあり,従い易ければ功あり。親しみあれば久しかるべく,功あれば大なるべし。久しかるべきは賢人の徳,大なるべきは賢人の業なり。易簡にして天下の理得たり。天下の理得て位をその中に成す。」

このメタファは,例えば,

「戸を闔(とざ)ざすこれを坤と謂い,戸を闢(ひら)くこれを乾と謂い,一闔一闢(いちこういっぺき 一たびは闔じ一たびは闢く)之を変と謂い,往来窮まらざるこれを通と謂い,見(あら)わるるはすなわちこれを象と謂い,形あるはすなわちこれを噐と謂い,制してこれをもちうるはこれを法と謂い,利用出入して民みなこれを用うるはこれを神と謂う。」

の,戸の闔闢は,『老子』にある,

「天門,開闔(かいこう)して,能く雌と為らんか。」

を思い起こさせる。孔子門下にとって,易は,

「夫れ易は,聖人の徳を崇(たか)くし業を広むる所以なり。知は崇く礼は卑(ひく)し。崇きは天に効(なら)い,卑きは知に法(のっと)る。天地位を設けて,易その中に行わる。性を成し存すべきを存するは,道義の門なり。」

と述べた孔子の言葉によって代表されるように,是非判断のよりどころであったらしい。なぜなら,

「天下の賾(さく)を極るものは卦に存し,天下の動を鼓するものは(卦爻の)辞に存し,化してこれを栽する破片に存し,推して之を行うは通に存し,神にしてこれを明らかにするはその人に存し,黙してこれを成し言わずして信(まこと)あるは,徳行に存す。」

「賾」すなわち錯雑とした複雑さをほどき,変を見通していく,儒者にとって,易は,一種の天下の趨勢をみるシミュレーションツールのようなものといってもいいのかもしれない。

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)
福永光司訳注『老子』(朝日文庫)

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posted by Toshi at 05:21| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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