徳,

などというものには,とんと縁のない俗人だが,徳と言えば,儒者の得意分野であり,『論語』にも,

徳有る者は必ず言あり,言有る者は必ずしも徳あらず…,

徳は孤ならず必ず隣あり,

道に志し,徳に依り,仁に依り,芸に游ぶ

中庸の徳たる,其れ至れるかな。民鮮(すくな)きこと久し,

等々,さまざまに言及されている。しかし,『老子』に,

上徳は徳とせず,是(ここ)を以って徳有り。下徳は徳を失わざらんとす,是を以って徳無し。上徳は無為にして以って為(な)す無く,下徳は之を為(な)して,而して以って為す有り。上仁は之を為して以って為す無く,上義はこれを為して以って為す有り,上礼はこれを為して之に応ずる莫(な)ければ,則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)って之を扔(つ)く。故に道を失いて而る後に徳あり,徳を失いて而る後に仁あり,仁を失いて而る後に義あり,義を失いて而る後に礼あり。それ礼は,忠信の薄にして,乱の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)は,道の華にして愚の始めなり。是を以って大丈夫(だいじょうぶ)は,その厚(あつ)さに処(お)りてその薄きに居らず,其の実に処りてその華に居らず,故に彼れを去りて此れを取る。

とあり,まさに,「仁義礼」という,儒者の徳そのものを否定する。

道を失いて而る後に徳あり,
徳を失いて而る後に仁あり,
仁を失いて而る後に義あり,
義を失いて而る後に礼あり,

とは痛烈ではある。因みに,

「上仁」は孔子に,「上義」は孟子に,「上礼」は荀子に,

それぞれ当てる,とも言われる。さてしかし,ここではそのことではなく,上記『老子』についての解説の中で,福永光司氏は,

「『徳』の原義が得であり,徳とは人間が道を得ること,もしくは人間によって得られた道をよぶことばである」

とする。しかし,『語源辞典』を見ると,「徳」について,

「『トク(徳・心が善く正しい人の徳)』です。人徳の結果としての善行,恩恵,財産の意です。転じて『利益』の意となった。」

とあり,「得」については,

「中国語の『彳(歩み行く)+貝,手』が語源です。歩いていって財物を手に入れる,エル,意をあらわします。」

とある。辞書(『広辞苑』)をみると,「徳」には,

道を悟った立派な行為,善い行いをする性格,
人を感化する人格の力,神仏の加護,
(「得」の通用字)利益,儲け,富,

とあり,他に,

富。財産,
生まれつき備わった能力・性質。天性,

という意味をも持つ。「得」には,

えること,手に入れること,
身につけること,悟ること,
儲けること,

と,「徳」と「得」は,利益や儲けることという意味で通底する。しかし,

「徳」は「得」,

とは,「得ること」「悟ること」という意味で,

徳とは人間が道を得ること,

という意味で通底しているのではないか。『大言海』に,

「集韻『徳,行之得也』正韻『凡言徳者,善美,正大,光明,純懿之稱也』禮記,樂記篇『禮樂皆得,謂之有徳,得者得也』」

と注記し,「得」と「徳」の関係を示す。漢字「徳(悳)」は,

「原字は,悳(トク)と書き,『心+音符直』の会意兼形声文字で,もと,本性のままのすなおな心の意。徳はのち,それに彳印を加えて,素直な本性(良心)に基づく行いを示したもの。」

漢字「得」は,

「左側の字は『貝+寸(手)』の会意文字で,手で貝(財貨)を拾得したさま。得は,さらに彳(行く)を加えたもので,行って物を手に入れることを示す。横にそれず,まっすぐ図星に当たる意を含む。」

とある。字源からは,「得」と「徳」の意味の通底は見られないから,通用するなかでつながったということになる。

老子の「徳」とは,

無為,而無以為,

である。『老子』にはそうある。しかし,司馬遷は,『史記』の老子列伝で,

「老子が貴んだのは道である。虚無であるからすべてに対処でき,無為において変化自在なる故である。その著書の示すところは,微妙で識り難い。荘子は(老子が説いた)道と徳をいっそうおしひろめ放論した。その要はやはり自然ということに帰着する。申子はもっと卑近で(老子の説を)名実の説に応用した。韓子は法律の縄をはりめぐらし,惨酷で愛情に欠けているのも,すべて(老子の)道徳の説にもとづく。してみれば老子は,深く遠かったのである。」

と,皮肉交じりに書く。『老子』にはある意味で,ニヒリズムな部分があり,法家にも,

「富国強兵にも応用しうる」

面を,司馬遷は鋭く見抜く。道家の説は,

「法・術の権力との結びつきによってどんな事が起こるかを知っていた」

と。因みに,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3

は,「徳」の項で,

「儒教的徳は人間の道徳的卓越性を表し、具体的には仁・義・礼・智・信の五徳や孝・悌・忠の実践として表される。」
「道家の徳は、根本的実在である『道』の万物自然を生成化育する働きを表す。」
「法家の徳は、『刑』と対照させられる恩賞の意味であり、恩賞必罰の『徳刑』として統治のための道具と考えられた。」

と区別した。こう考えると,「徳」が「得」に通じるのは,もっと現実的に,「徳」が「得(く)」だからにほかならないのかもしれない。「徳」というもののもつ,

無為自然,

あるいは,

おのがありのまま,

ということのもつ危うさを,既に『史記』で,司馬遷が,二千年余前に,指摘していた,ということに尽きる。

参考文献;
福永光司訳注『老子』(朝日文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝』(岩波文庫)

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