2017年01月19日

老子


福永光司訳『老子』を読む。

老子上.jpg


第一章の,

道可道非常道,名可名非熱名,

道の道とす可きは常の道に非ず,名の名とす常の名にあらず,

から,

第八十一章の,

信言不美,美言不信,

信言は美ならず,美言は信ならず,

までの五千余字の老子の思想は,中国思想(だけでなく東洋思想全般)の底流で,広く社会の考え方のみならす,禅にも,毛沢東にも,連綿と通底するものがある。それは,親鸞の「自然(じねん)」にも,道元の「無為」にもつながる,という。訳者は,その無為の思想は,

「(その)無為の政治哲学を法による無為の政治哲学に改編し,絶対権力の座に専制の無為を構想する法家」



「『天下を用(も)って為す無し』と揚言する荘子の真人」

とに二分する,という。それは,

法家の法による無為の権力政治,

「天下を用って為す無き」真人の道の哲学,

とに分極する。このことは,「徳」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/445836790.html

で,いくらか触れた。『韓非子』に,

「君,其の欲する所を見(しめ)す無かれ。君,其の欲する所を見せば,臣まさに雕琢(ちょうたく)せんとす。」
「其の跡を函掩(おおいかく)し,其の端(きざはし)を匿(かく)せば,下原(たず)ぬる能わず」

とある,『老子』の,

「国の利器は以て人に示すべからず」

という考え方は,法家にこのように引き継がれる。その種は,「無為」とする『老子』にある。

われわれにとっても,『老子』,あるいは道教の影響は深く大きく,たとえば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/438205191.html

で触れた,

天網恢恢疎にして漏らさず,

というような,言い回しを無意識で耳に覚えているほどに,我々の心に深く浸透している。もとは,

天網恢恢疎にして失わず,

にある。

天の道は,争わずして善く勝ち,言わずして善く応じ,召かずして自ずから来たり,繟然として善く謀る。天網恢恢,疎にして失わず,

に載る。和光同塵は,

和其光,同其塵,

其の光を和らげ,その塵れを同じくす,

である。あるいは,「足るを知る」も,

故知足之足。常足矣。

足るを知るの足るは,常に足る,

と。

『老子』の無為は,

何もしない,という意味ではない。

無為の為,

である。あるいは,

無以為,

以て為す無し,

作為を弄しない,という意である。その背景には,親鸞の言う,

はからい,

を棄てる,ということがある。

皆我を自然と謂う,

とは,その謂いであろう。しかし,『老子』は,

道常無為,而無不為,

道の常は無為にして,而も為さざるは無し,

と転ずる。

上徳は無為にして以て為す無く,下徳は之を為して以て為す有り,

と対比されることで,

無以為,

が何もしないだらけた状態ではないことは明らかである。

「為さざること無き無為」

なのである。といって,凡人によく出来ることではないが。

孔子の,

「之を知るを之を知ると為し,知らざるを知らずと為す,是れ知るなり」

に対比して(随所に対比しているところがあるが),

知不知上,不知知病,夫唯病病,是以不病。

知って知らざるは上なり,知らずして知るは病(へい)なり,夫れ唯病を病とす,是を以って病あらず,

と,

無知の知,

へとシフトさせる。おのれの知っていることなどたかが知れている,という思いである。孔子の,

「『之を知る』をも老子はなおも之を知らざる者として否定することを教える」

と。

其の愚を知る者は大患にあらず,其の惑いを知る者は大惑にあらず(『荘子』),

に通じるようである。

天は道に法(のっと)り,道は自然に法る,

なのである。

なお,老子自身については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90

に詳しい。

参考文献;
福永光司訳注『老子』(朝日文庫)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
posted by Toshi at 04:55| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください