2017年01月22日

尾生の信


幕末のことを書いたものを読んでいると,そこに登場する手紙などの文献に,しばしば,

九仞の功を一簣に虧く

という故事が,言い回しとして頻繁に出る。『故事ことわざ辞典』

http://kotowaza-allguide.com/ki/kyuujinnokouwoikki.html

によれば,

「『仞』は古代中国の高さや深さの単位で、「九仞」は非常に高いという意。『簣』は土を運ぶかご。もっこ。『虧く』は損なうこと。高い山を作るのに、最後にもっこ一杯の土を欠けば完成しないことから。『書経・周書』に『山を為ること九仞、功一簣に虧く』とあるのに基づく。」

とある。最後の詰めが大事というのに,そういう譬えをしたのだろう。

似たように,『史記』や『戦国策』を読んでいると,しばしば喩えに出されるのは,「尾生(びせい)の信(尾生之信)」だ。そう言えば,最近,こういう喩えを使って論旨を展開する人が少なくなった。小泉元総理が,「米百俵」のように,よく使ったのが一番記憶に新しいが,これからもわかるように,大概は,自説補強の喩えとして使うことが多い。

『広辞苑』には,

「(『荘子』盗跖)尾生が女と橋の下で会う約束をしたが女は来ず,大雨で増水してきたのに待ちつづけ,ついに溺死したという故事にもとづく)固く約束を守ること,愚直なこと。」

と載る。この謂れから,

「抱柱之信」(ほうちゅうのしん),

とも言う。『故事ことわざの辞典』には,

「尾生の信は,随牛の誕(いつわり)に如かず」(『淮南子』)

と載せる。随牛とは,君命を偽りて国を存した人,と注記される。それに如かず,と。

『史記』蘇秦伝では,

蘇秦が,燕王に,曾参(そうしん)のごとき孝行もの,伯夷(はくい)のごとき廉潔のひと,信義をまもること尾生のごときものが使えているとしたらどうか,と尋ねたところ,王が,満足と,返答したことに対する反駁として,こう答えるところがある。

「「曾参のように孝行者でしたら、義として一晩でも両親の元を離れて外へ出ることはございますまい。王さまはどのようにして、千里の道を歩かせ弱い燕の国の危うき王に仕えさせることができるのでしょうか。伯夷のように廉潔であれば、義として孤竹国の君主の座も継がず、武王の臣にもならず、封侯も受けず首陽山の麓で餓死したのですから、このように廉潔であれば、王さまはまたどのようにして千里の道を歩かせ、斉において進んで新しいことに取り組ませることができるのでしょうか。尾生のように信義を守る人であれば、女と橋の下で会う約束をして、女が現われなかったのに、水が増えてきてもそこを離れず、柱を抱いて死んだほどです。このように信義を守る人であれば、王さまはまたどのようにして千里の道を歩かせ斉の強兵を退かせることができるのでしょう。わたくしはいわゆる忠誠と信義というもののために、上より罪を受けたのでございます。」

とあるし,『戦国策』 にも同様のエピソードが載り,

「かくまで信を守る男が…大きな功績をおさめられようか。」

と述べており,出典となっている『荘子』盗跖では,

「世間でいうところの賢士は、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)だが、伯夷・叔斉は孤竹国の君主を辞退して、首陽山(しゅようざん)で餓死し、亡骸は埋葬すらされなかった。鮑焦(ほうしょう)は清廉高潔にこだわって世間を非難し、木を抱いて死んだ。申徒狄(しんとてき)は諫言が聞き入れられなかったので、石を背負い河に身を投げて死に、魚の餌となった。介子推(かいしすい)は最も忠義者で、自分の太ももの肉を割いて、晋の文公に食べさせた。文公は国に戻った後、彼に背を向けて報いなかったので、子推は怒って去り、木を抱いて焼け死んでしまった。尾生(びせい)は橋の下で女と会う約束をしたが、女が来ない。河の水かさが増してきたが、尾生はその場を立ち去らず、橋げたを抱いたまま死んだ。
この六人は八つ裂きにされた犬や河に流された豚、ひさごを持って物乞いをする乞食と変わりない。みな、名節を重んじ、命を軽んじて死に赴き、本質を考えて寿命を養うことができなかった者たちである。」

として,これは,孔子が大盗賊・盗跖にやり込められる部分である。つまり,

「名に離(かか)り死を軽んじて、本(もと)を念(おも)い寿命を養わざる者なり」

と,荘子は盗賊を借りて批判しているのである。因みに,『史記』屈原・賈生伝では,おべっか,諂いが跋扈するのを,

世人は伯夷を貪欲といい,盗跖を清廉だといった,

と皮肉な表現をしている。

つまり,「尾生の信」を引くときは,信義頼むに足らず,の喩えとして使われているのである。荘子は,儒者批判の為にしているし,蘇秦は,遊説家として,説得のために喩えを用いている。「揣摩臆測」,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/445649269.html

で触れた,

揣摩の術,

として使っている。いずれも,信義とか忠実とかを嗤うために,「尾生の信」を持ち出している。だから,「尾生の信」と言うとき,多く,

約束を頑なに守る愚,

という含意で喩えとして使われる。その意味で,

愚直,
とか
馬鹿正直,

という裏面の翳がついて回る,といっていい。信義とは,たとえば,

真心をもって約束を守り,相手に対するつとめを果たすこと,

といった意味である。約束したのは,相手とだけではない。自分自身に対しても,それを守ると,約束したのではあるまいか。

僕は思うのだが,周りに愚と見えようと,そうすることが,おのれにとって大事なことだということはある。人と約束するとは,ただ,その約束事項を相手と交わしたという以上に,自分自身に対して,その約束を守る,と誓ったことなのではないか。とすれば,相手を信ずる,と言う以上に,それを約束した自分を信じ切る,ということではないのか。結果はどうあれ,それが,自分の倫理なのであれば,それを遂行しきる,ということは,そう嗤えることではあるまい。

確かに馬鹿正直にもほどがある,という言いようもある。しかし,信ずるに足らぬものを信じたのはおのれである。そのおのれのつけを払うには,徹頭徹尾,おのが信じた約束を守りきること,というのもまた,ひとつの生き方だと,僕は思う。倫理とは,

おのれはいかに生くべきか,

の謂いである

なお,「尾生の信」というタイトルで,

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/24_15235.html

芥川龍之介に,短編がある。また,盗跖については,

http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%9B%97%E8%B7%96

に詳しい。

参考文献;
近藤光男編『戦国策』 (講談社学術文庫)
小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝』(岩波文庫)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
posted by Toshi at 05:42| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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