司馬遷『史記列伝』を読む。
本書は,司馬遷が『史記』において創始した歴史叙述の一形式,紀伝体の,
列伝,
の訳である。『史記』は,
中国の二十四史の一つ,黄帝から前漢武帝までの二千数百年にわたる通史,
であるが,紀伝体は,班固の『漢書』以降の歴代の正史はみなこの形式を踏襲する,とされる。『史記』は,
本記12巻,
世家 30巻,
表 10巻,
書8巻,
列伝 70巻,
からなる。本記,世家は,『春秋』『左伝』に倣う部分があるが,年表,『列伝』は,司馬遷が創り出した。ちなみに,我が国の『日本書記』も,『日本書』か『日本書紀』かの論争はあるが,
『日本書紀』は「紀」にあたる,
ので,紀伝体全体の,『日本紀』の部分のみ,つまり未完,とされる説もある。
列伝とは,
人々の伝記を連ね記したもの,
だが,訳者(小川環樹)は,「伝」について,
「『伝』という語の本来の意味は広義の伝承であり,経書の注釈などが『伝』とよばれるのも,師から門人(たぶん口づたえ)次つぎに語りつがれたからであろう。司馬遷がただ『伝』とは言わず『列伝』の名称をことさら選んだ理由は,いくつかの解釈があるが,私の臆説を言えば,かれはある個人の性格やその一生を叙述することに特別の意義を見出したからであって,単に伝承されたことを転述するのではないと考えたからであろうと考えられる。そうでなければ,『商君列伝』その他ただ一人のことをしるしながら『列伝』というのは奇異である。」
と書く。
それにしても,列伝記載中,生をまっとうしたものは数えるほどしかいない。暗殺されるか,処刑されるか,牢死するか,自決するか,いずれも王や競争相手によって振り回されていく。いやいや王自体が,秦の二世,三世皇帝のように,佞臣に追い詰められていく。斯く言う,司馬遷自身が,匈奴に降伏した李陵を擁護して,武帝の怒りを買い,宮刑(腐刑)という屈辱を味あわされた。
本書の中で,列伝と言いつつ,
ただ一人だけを叙述,
する場合と,
数人併せて一群の伝記,
とする場合があり,後者は,
合伝,
と呼ばれる,「長耳・陳余列伝」のような組み合わせたものと,さらに,
雑伝,
と呼ばれる。テーマで寄せ集めた,例えば,循良な官吏の,
循吏列伝,
漢代儒者の,
儒林列伝,
孔子の高弟七十数人の,
仲尼弟子列伝,
等々がある。訳者の言うように,
「雑伝の中に司馬遷の独特の歴史観または人間観をあらわすものがある。」
ので,たとえば,
刺客列伝,
の,秦王政(始皇帝)の暗殺をねらった荊軻の,有名な,
(秦王(左)に襲い掛かる荊軻(右)。画面中央上には秦舞陽、中央下には箱に入った樊於期の首が見える。)
風蕭々とふきて易水寒(つめ)く
壮士一たび去(ゆ)かば復(ふたた)び還(かえ)らず
歌う場面は印象深いが,秦王暗殺の場面は詳細を究める。そのことについて,司馬遷は,「太史公曰く」として,
「世間では,荊軻といえば,太子丹の運のこと,つまり『天が穀物を雨とふらせた,馬に角がはえた』などの話をひきあいに出す。それは度がすぎる。また『荊軻は秦王に負傷させた』とも言う。すべて正しくない。ずっと以前公孫季功(こうそんきこう)と董生(とうせい)は,夏無且(かぶしょ 御典医。その場に居合わせて薬箱を荊軻に投げつけ,秦王を助けようとした)とつきあったことがあり,彼の事件をくわしく聞き知っていた。わたくしのために話してくれたのが,以上の如くなのである。」
と書く。秦から前漢へと,秦滅亡後,高祖,恵帝,文帝,景帝を経て,武帝の世となっても,見聞の実話が残っている,そういうリアリティを感じさせる。
あるいは,「游侠列伝」も,こういう史書には珍しい。太史公自序は言う。
「苦難にある人を救い出し,金品に困っている人を援助することでは,仁者も学ぶ点があり,信頼を裏ぎらず,約束にそむかないということでは,義人も見習う点があろう。ゆえに游侠列伝第六十四を作る」
と。冒頭に,司馬遷はこう書きだす。
「韓非子は述べている。
『儒は,文の知識によって法律を乱し,そして侠は,部の暴力を用いて禁令を破る』と。」
そして,游侠について,
「游侠とは,その行為が世の正義と一致しないことはあるが,しかし言ったことはぜったいに守り,なそうとしたことはぜったにやりとげ,いったんひきうけたことはぜったいに実行し,自分の身を投げうって,他人の苦難のために奔走し,存と亡,死と生の境目にわたったあとでも,おのれの能力におごらず,おのれの徳行を自慢することを恥とする,そういった重んずべきところを有しているものである。」
と書く。さらに,
「古(いにし)えの游侠については,なにも(伝わらず)知るすべはない。
近世では,延陵(の季子)や孟嘗君・春申君・平原君・信陵君たちは,いずれも国王の親族で,領地をもち大臣の位をもって裕福であったため,天下の人材を招き集め,その名声は諸侯の間にも鳴りひびいていた。かれらも,すぐれていない,とは評することのできない人たちであった。しかしかれらは,たとえば追い風にのって叫びをあげたようなものであって,その声そのものが速さを増したわけではなく,(声を運んだ)風(財産や地位)の勢いがはげしかったのである。
ところが,民間の裏町に住む侠客について言えば,おのれの行いをまっすぐにし,名誉を重んじた結果,評判は天下にひろがり,りっぱだとほめない者とてなかった。これこそ困難なのだ。それなのに,儒家も墨家もどちらも游侠を排斥し棄てさって,かれらの書物に記しとどめはしなかった。秦より前の時代では,民間独行の游侠の事蹟は埋没して伝わっていない。わたしはそのことをきわめて残念に思う。」
とまで書く。あるいは「貨殖列伝」では,おのれの才覚で巨大な富を築いた庶民を書く。太史公自序に,
「官位をもたない全くの平民でも,政治の害にはならず,人びとの活動をさまたげることもなくて,うまい時機を見はからい物の売買をし,それでもって富をふやす。知あるひとは,そこから得るところがあるだろう。ゆえに貨殖列伝第六十九を作る。」
と。
「雑伝の多くは,後世の歴史家といえども,取り上げない人物を主人公とする。」
訳者は,司馬遷の思いをこう仮託する。
「四十八歳で宮刑を受け,不具者とされて以後,かれが歩いた人生の裏側が顔を出しているのだとも言える。かれは否応なしに正字の世界の裏面を考えさせられた。そのことが皮肉な形で,通常は高く評価されない人びとの伝記をも作ることを可能にしたのであった。」
司馬遷の知識の深さ,見識の広さ,と同時に,対象とする歴史を俯瞰しようとする問題意識に,ただ圧倒される。しかも,列伝中の人々の,歴史に振り回され滅びていく悲劇の描写は,生き生きとしているのである。
参考文献;
小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝』(岩波文庫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8A%E8%BB%BB
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