2017年02月23日

ソフト・テクノロジー


D・A.・ノーマン『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』を読む。

人を賢くする道具.jpg


原題は,

Things That Make Us Smart;Defending Human Attriyutes in the Age of the Machine

である。著者は,「日本語版の読者へ」で,

「今日の問題は,テクノロジーのデザインを技術信奉者に任せきりにしてきた点にある。今こそ,日常を生きている人間の側が,コントロールの主体となるべき時である。目標は高いところにある。すなわち,我々が,我々の生み出した機械仕掛けのあるいは電子式の道具とより調和のとれたやり取りができるようになること,である。機械が,人間のニーズに自らを適応させなければならない。今はまだ,人間の側が,機械の気まぐれにつきあわなければせならないことがあまりにも多すぎるのである。」

と述べる。つまり,それは,「まえがき」で述べることにつながっていく。

「我々の社会では,人の生き方に対して機械中心の態度を知らず知らずのうちにとるようになってしまった。人間側よりテクノロジー側の要求に重点をおき,われわれの方が機械のサポート役となることを強いる。これは人間が最も不得意としていることだ。さらに悪いことに,機械中心の見方では,人間は機械と比べて,精密さや繰り返しや正確さが必要な行動が苦手な欠陥品ということになる。こういうことはよく言われるし,社会にも広まっているが,それは人間に対する最も不適切な見方である。」

だから,

「今はわれわれがテクノロジーに仕えてしまっている。われわれは機械中心の見方を覆し,人間中心の見方に変えなければいけない。テクノロジーがわれわれに仕えるべきなのである。これは,テクノロジーの問題であると同時に社会の問題でもある。」

と。これは,一度大学を辞めてコンピュータ業界に入った著者ならではの,

「何よりもわれわれの社会構造こそが,テクノロジーの進む方向と生活へのインパクトの両方を決めている」

という問題意識で,単なる反科学技術としてではなく,

「テクノロジーと人間との関わりを社会問題として捉えなければならない」

という考えに基づく。サブタイトルとなっている,

ソフト・テクノロジー,

とは,ハード・テクノロジーと対比させて使われている。

「精密で正確な測定に頼る科学を『ハード』サイエンスと呼ぼう。観察や分類,主観的による測定や評価に頼らなければならない科学を『ソフト』サイエンスと呼ぼう。そしてこの二つの科学の上に築かれ,これらを活かすテクノロジーをそれぞれハード・テクノロジー,ソフト・テクノロジーと呼ぼう。さて,ハード・サイエンスやハード・テクノロジーは,それ自体が悪いわけではない。問題は,それが置き去りにするものの中にある。ハード・サイエンスは,測定できるものだけを測定し他を無視する。ソフト・サイエンスはこうした忘れ去られている部分を救おうとする。」

今日起こっているのは,

「テクノロジー…が,生活のある一面を意図的に重視し他の面を無視する考え方をもたらす。重視するかどうかはその真の重要性によるのではなく,今日のツールで科学的,客観的に測定できるかどうかという恣意的な条件によるのである。」

ということによる偏りである。これでは,「人を賢くする」道具になりきっていない,というわけである。機械の機能で,人間の機能を測るというのは本末転倒だが,しかし,多く,機械に慣れているか(機械に適合しているか)どうかで,人を測っている。機械をコンピュータに置き換えれば,そういう評価の仕方を当たり前にしている。しかし,それは機械基準で考えているのであって,人のもつ能力を活かしたり,伸ばしたりするように,機能しようとしていない。それでそれでいいのか,そういう社会のあり方でいいのか,という問いが,著者の問題意識であり,本書を貫くテーマである。

著者は,人の認知を,

体験的認知(experimental cognition),

内省的認知(reflective cognition)

の二つに分けて考える。

「体験モードにおいて,我々は特別な努力なしに効率良く周囲の出来事を知覚したりそれに反応したりできるようになる。これはエキスパートの行動モードであり,効率的行動のキーとなる要素である。内省モードは比較対照や思考,意思決定のモードである。このモードにより新しいアイデア,新たな行動がもたらされる。それぞれのモードはどちらも人間の行動には重要なものであるが,まったく異なったテクノロジーの支援を必要とするのである。人間の知覚と認知に結びついたこれらのモードの違いに対する十分な理解なしには,テクノロジーに手綱をつけること,つまり製品を人間に適合させることは不可能なのである。」

しかし,現状,どちらかというと,体験モードに偏っている,と著者は見る。

「テレビや他の娯楽メディアの価値に関する意見の対立はこれらの二種類の認知の性質を混同することから起こっている。現在の多くの機械とその使い方がうまくいっていないのは,体験的状況に対して内省のためのツールを,内省的状況に対して体験ツールを与えてしまっていることによる。」

と。確かに,ゲーム感覚で学ぶ等々という体験型のツールは増えている。体験を入口にして誘おうとする傾向は強まっている。まさに,器械に使われている。体験モードは,

「新しい体験を得ることができても,人間がものごとを理解するうえでの新しいアイデア,新しいコンセプト,進歩をもたらすことはできない―そうするためには内省が必要なのである。」

今日,それが使えてもそれ自体がブラックボックスになっているモノが圧倒的に増えている。それは,あるいは人間の退化なのかもしれない。ふと,

「学びて思わざれぱ則ち罔(くら)く,思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」

という孔子の言葉を思い出した。体験と内省は,両輪である。

(メタ化かしなければ)体験しただけでは,自分のスキル,ノウハウにはならない,

というのも同趣旨である。そのためのツールがなにほどあるのか,という著者の問いは,20年以上前なのに,未だ生きていると思う。

参考文献;
D・A.・ノーマン『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』(新曜社認知科学選書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
posted by Toshi at 05:29| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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