2017年03月14日

孝明天皇


家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』を読む。

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本書は,幕末という大きな転換点で,歴史を変える役割を果たした孝明天皇に焦点を当て,

「通商条約の勅許問題を契機に,江戸期を通じて朝幕間最大の政治対立にまで発展した安政五年政変に至る過程を分析しようとする」

ものである。結果,

「本人の意思とは裏腹に重要な役割をはたすことになったのが,孝明天皇であった。ペリー来航に代表される未曾有の対外危機に遭遇した彼は,広く知られているように,安政五年(1858)の時点で,幕府が推し進めようとした開国路線の前に立ちはだかることになる。
 もし彼がこうした姿勢を貫かなかったならば,その後の歴史は,我々の知るそれとは相当程度異なるものとなったであろうことは間違いない。だが,孝明天皇は,この時点で,開国路線に待ったをかけ,ここに幕末日本の運命は事実上決した。これ以降,朝幕関係は悪化し,それに伴って日本は動乱の時期に突入する。その結果,最終的には,幕府支配が倒され,長い歴史を誇った摂関体制も一気に廃止されることになる。そして,平安時代より続いてきた伝統的な朝廷のあり方を否定したうえで,天皇を国家元首とする新しい政府(近代天皇制国家)が創出された。」

という,この時期の孝明天皇の揺れ動く意思決定プロセスをつぶさに分析していくのである。

「まず,政変前の平穏であった朝幕関係や朝廷社会の内部」
「つづいて,その後,どう政変が発生したのか」
「そして最終的には,その後の天皇および朝廷社会のあり方にいかなる影響を及ぼしたのか」

を展開する。そこでは,著者は,三点に留意したという。

第一に,

「政変に至る過程を分析するにあたって,孝明天皇の動向を軸にしながらも,従来はほとんど本格的に取り上げられることのなかった一連の人物(関白の鷹司政通など)にも焦点をあてて,じっくり公家社会のじっくり解明する」

サブタイトルに「若き孝明帝と鷹司関白」とある所以である。孝明帝の父,仁孝帝以来三十年関白職にとどまった関白との関係は,なかなか一筋縄ではいかない。本人自身が病弱で,再三辞意を表明しながら,慰留され続けてきた。しかも仁孝帝より一回り以上年上で,しかも,

鷹司家と仁孝・孝明両天皇が同じ血脈(政通の祖父輔平の実兄は,光格(孝明の祖父)天皇の父閑院宮典仁親王),

であったことも,

「両天皇(仁孝・孝明両天皇)にとって,政通は血縁的に親しい感情を持てる相手であり,その分政通には,天皇の支持が当初から獲得しやすかった」

ということも,さらに,鷹司関白が,

「周到な配慮のできる,真に『大人』の関白であった」

からこそ,人心を掌握できた,その人と孝明帝との確執が,大きな作用をしていくことになるらこそである。

第二は,通説となっている,

「孝明天皇は,長期間にわたって朝廷を支配してきた摂家(関白の鷹司政通)に対抗して,天皇権(天皇の権勢)の回復に努めた豪胆な性格の天皇であったこと,その背景に祖父光格天皇の存在が大きく影を落としていることを力説する」

評価に対して,

「安政五年の時点で彼を豪胆な君主に変貌させたのが,すぐれて幕末期に特有の事情によったことを明らかにしようとする」

という本書の狙いは,ほぼ達成されている。気弱で,やさしい配慮(鷹司関白に,辞任後,異例の太閤の称号を贈る)の孝明帝が,どうして頑なに開国を拒むに至った彼の経緯は,説得力がある。そのことが,逆に,合理的で,迷信を排する鷹司関白との対立をもたらすことになっだけである。

第三は,

「幕末期の天皇や公家については,漠然たる形であれ,世界史の流れを理解できない頑迷固陋な人間集団(閉鎖的で狂信的な攘夷主義者の集まり)といった評価が定着しているようだが,この点の再評価を試みる」

とする。

「彼らの主張には,変革を拒否する守旧主義や,欧米諸国の文物・宗教に対する偏見と誤解が色濃く見られた」

ことは確かだが,

「アメリカ等が強制してきた,いわゆる『グローバル・スタンダード』(それは『世界通商の仕向』『万国共通の常例』『世界普通の御法』といったお題目のもと,文化・文明の両面で欧米的価値観を日本側に強引におしつけようとするものであった)への鋭い批判が見られたのも事実である。すなわち,健全なナショナリズムの萌芽がそこには含まれていた」

とも見なし,時代状況の中で,守旧となることが,ある意味を持つことも的確に分析されている。

さて,本書を通読して,つくづく感じたのは,,リーダーが,下々に広く意見を求めることは,多く,責任放棄か,バックアップを求めてということになる,という点である。それは,リーダーが,意思決定することに揺らいでいることが多い。意思決定した後にその是非を求めるのと,その前に意見を求めるのとでは雲泥の差だ。

老中阿部正弘は,ペリー来航後,それまでの意思決定システムを崩し,

「上は天皇・諸大名から,下は幕臣に至るまで,国内の広い層の同意を得て,幕府の方針を決定檣とはかった」

結果,多くは,「存念なし」と,意見すら表明し得ない有様で,

「幕府首脳は,自分たちを援護してくれる筈の『世論』づくりに失敗した」

が,同じことは,老中堀田正睦に勅許を迫られ追い込まれた孝明帝が,取ったのも,

「多くの人々の意見を聴いて,それを参考にする手法(口実)」

であった。

「もし仮に,孝明天皇が,いくら自分は開国に反対すると叫んでも,それが即,朝廷の方針とはならなかったのである。すなわち,長年にわたって,朝廷の方針は関白-両役(武家伝奏と議奏,なかでも武家伝奏)ラインによって決定されてきた。そこで,開国路線にとりあえず待ったをかけるためには,従来の朝廷の最高意思を決定するあり方を,一時的にせよ停止する必要が出てくる。そして,このために天皇が採ったのが,開国に反対する圧倒的な世論を朝廷内に形成し,それでもって開国を阻止する作戦であった。」

一旦開けたパンドラの箱は,元へは戻らない。阿部正弘は,朝廷の意見を聴取するにあたって,

「叡慮に,かよう遊ばされたくと申す思し召しもあらせられ候はば,ご遠慮なく仰せ出され候よう,左候はば,その思し召しにて御取計らいも仕るべく儀と申すことに再応申し述べらる」

と,リップサービスで言ったことが,朝廷側に,

「国家の御大事は公武御一体の御義」

と受けとめさせ,以後,朝廷側に強く意識させることになる。ここでもパンドラの箱を不用意に開けたのである。

リーダーが意思決定に当たって,広く意見を求めることが,結果として,リーダーの思惑通りにはならないことは,今日でも,国民投票に振り回された例で見ることができる。それは,意思決定の先送り以上の悪夢しか生まないようである。

参考文献;た
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』(中公叢書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:30| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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