2017年03月19日

避決定


森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」』を読む。

日本はなぜ開戦に踏み切ったか.jpg


本書の意図を,著者が「あとかぎ」で,

「これは,大本営政府連絡懇談会(連絡会議)における『国策』策定という当該期の意思決定の『制度』を対象に,開戦過程に対して筆者なりの説明を試みたものである。しかし『非決定』というネーミングのインパクトが強かったためか,『非決定』なのに開戦を決定したではないか,という批判も受けた。今にして思えば,『避決定』としたほうが実態に近かったかもしれないと反省している。このため,本文中では『非(避)決定』としている。」

と書く。本書のサブタイトルにある,

「両論併記」と「非決定」

とは,「明確な意思決定が困難な場合の国策」決定プロセスの,

「コンセンサス方式による文案の決定のありよう」

を指す。それは,

「①『両論併記』=一つの『国策』の中に二つの選択肢を併記する。二つどころか,多様な指向性を盛り込み過ぎて同床異夢的な性格が露呈する場合もある。
 ②『非(避)決定』=『国策』の決定自体を取り止めたり,文言を削除して先送りにすることで対立を回避する。
 ③同時に他の文書を採択することで決定された『国策』を相対化ないしは,その機能を相殺する。」

と,著者は,整理する。そして,

「となると,なぜ日米開戦のような重大問題で,これら当事者全員の意思決定が可能となったのだろうか。それは,日米開戦が,それ自体を目的として追求された結果,選択されたわけではなかったことも一因である。」

そのプロセスを見ていくのが本書の狙いになる。

「その中で明らかになってくることは,むしろ,効果的な戦争回避を決定することができなかったために,最もましな選択肢を選んだところ,それが日米開戦だったという事実である。」

1940年以降,政府と統帥部との関係緊密化の試みとして設けられた,

大本営政府連絡懇談会 ,

で,国家の方針を定める「国策」が決定されることになったが,そこで41年7月から42年の「対英米蘭開戦の件」まで,10件以上の「国策」が決定される。しかし,

「たとえば,…1941年7月2日に御前会議で決定された『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』…は,対英米戦に関する重大な文言が認められた『国策』であった。ここでは,仏印とタイへの進出による南方進出態勢の強化がうたわれたが,そのためには『対英米戦を辞せず』とされていた。日本は,この決定に従って南部仏印に進駐し,英米蘭の対日全面禁輸を招来した。『対英米戦を辞せず』と大見得を切ってまで決定された『帝国国策要綱』だったが,つきなる措置を決めた…『帝国国策遂行要領』(9月6日)では,外交交渉と戦争準備を並行して進め(『両論併記』),開戦の判断は10月上旬まで先送り(『非(避)決定』)されていたのである。
 ところが,近衛内閣は期限が過ぎても判断をなし得ず,10月中旬に崩壊した。そして新たに組閣した東条には『白紙還元の御諚』が下され,『国策』は反故となった。八月末から十月までの間は,国際情勢が激変した時期ではない。つまり,日本はいったん決定されたはずの政策を実行に移すまでの間に,内閣の崩壊と更なる根本的な政策内容の検討を余儀なくされたのである。このような『国策』とは,いったい何なのであろうか。」

この「避決定」たるゆえんを,こう「あとがき」で書く。

「後世の目から冷静に評価すれば,,戦争に向かう選択は,他の選択肢に比較して目先のストレスが少ない道であった。海相の任命,被害船舶の算定,海軍の開戦決意,『聖断』構想,天皇の作為,いずれもが,もし真剣に実行しようとしたら,それまでの組織のあり方や周囲との深刻な軋轢が予想された。実は,回避されたのはそのような種々の係争が予想される選択肢だったのである。つまり,内的なリスク回避を追求した積み重ねが,開戦という最もリスクが大きい選択であった。にもかかわらず,当事者にとっては,開戦は三年めの見通しのつかないあいまいな選択肢だった。ようするに,目の前の軋轢を回避し,選択の結果についても判断を避けることが可能になる。開戦決定は,一見非(避)決定から踏み出した決定に思えるが,非(避)決定の構造の枠内にとどまっていたのである。
 全く逆の発想もある。それは何もしないという選択,意図的な非(避)決定の貫徹,つまり臥薪嘗胆である。しかし,これは受苦の連続となることは必定だった。確実に国力が低下して行くなかで,状況の好転をひたすら待ちつづける。小役人的に目先のリスクを回避するのに汲々としていた当時の指導者層に,あえて『ジリ貧』を選ぶというような,そんな肝が据わった行動が期待できただろうか。」

と切り捨てる。ここで言う臥薪嘗胆とは,アメリカの石油禁輸措置を受けて,東条首相が示した,

戦争することなく臥薪嘗胆,
直ちに回線を決意し戦争によって解決,
戦争決意の下に作戦準備と外交交渉,

という選択肢の,「臥薪嘗胆」つまり,石油禁輸に堪える,ということを意味する。しかし,陸軍が,中国よりの撤兵を拒む以上,対米交渉も先行きの見通しは立たない。

「浮き彫りになったのは,結局どんな選択肢をとるにせよ,日本に明るい未来は来そうにないということであった。種々の限定付きであるにせよ,最も希望の持てそうな選択肢が南方資源確保のための開戦であった。しかしそれは,希望的観測に根拠を置く,粉飾に満ちた数字合わせの所産だったのである。日本の選択が『ベスト・ケース・アナリシス(全てが良い方向に転ぶことを前提とした分析)』に依拠していたと指摘される所以である。」

「非(避)決定」の一例は,対米戦の主たる戦力となるはずの海軍自体が,

「成算があるのは緒戦の資源地帯占領作戦のみであった。長期戦の見通しは『不明』」
「開戦三年め以降の見通しは不明という態度をとり続けていた」
(中国からの)「撤兵問題だけで日米が戦うなど『馬鹿なこと』という立場」

であった「海軍が戦争やむなし」と決意したのは,「開戦三年め以降の戦局に対する判断を放棄したことと同意義だった」にもかかわらず,結局,

「英米可分論や船舶損耗量の見通しのような,それまでの海軍の立場を揺るがしかねず,かつ周囲との軋轢が予想される戦争回避策を避けた,ということである。つまり決定回避の対象が開戦ではなく,目前の重圧(しかも海軍にとっての)に向けられたのである。そして三年め以降は不明という戦争見通しは,海軍の立場を守るうえでも有効だった。開戦という選択肢の評価は,三年め以降にしか判明しないからである。海軍は組織的利害を優先し,自らが戦争の行方を判断することを放棄した。」

というていたらくなのである。多くの軍人は,たとえば,参謀本部の中堅幕僚は,ぎりぎりまで戦争回避を画策する重臣を,

「皇国興亡の歴史を見るに国を興すものは青年,国を亡ぼすものは老年なり。(中略)若槻,平沼連の老衰者に皇国永遠の生命を託する能わず」

と,冷ややかである。しかし著者は,

「この後,わずか四年を経ずして,永遠の筈の皇国の生命を断ち切ることになる選択をしたのは彼らのほうであった」

と切り捨てる。この間の決定の過程をみるとき,

「そもそも,何故に両論併記や非(避)決定を特徴とする『国策』が必要とされたのであろうか。それは,強力な指導者を欠いた寄り合い所帯の政策決定システムが,相互の決定的対立を避けるためであった。そのための重要な構成要素が,『国策』の曖昧さであった。それでは,臥薪嘗胆,外交交渉,戦争という三つの選択肢から,なぜ臥薪嘗胆が排除されたのだろうか。それは臥薪嘗胆が,日本が将来に蒙るであろうマイナス要素を確定してしまったからであった。これに比較して,外交交渉と戦争は,その結果において曖昧だった。つまり,アメリカが乗ってくるかどうかわからない外交交渉と,開戦三年めからの見通しがつかない戦争は,どうなるかわからないにもかかわらず選ばれたのではなく,ともにどうなるかわからないからこそ,指導者たちが合意することができたのである。」

結局,結果として,

「何のための戦争だったのだろうか。即物的な観点からすれば,石油のためであった。…結果的に,石油のための戦争となったのである。」

ということになる。著者は,陸軍が,中国からの撤兵に反対したのに象徴されるように,

「日本は,自らの政策が破たんしたツケを,自らが傷ついてまで支払う責任感に欠けていた。最低限度の現状維持すら確保できなくなった日本は,それまでの『成果』を無にしないため,」

対英米戦に突入することになる。

こうした意思決定システムの原因は,明治憲法体制にある。著者は,明治憲法体制における政治システムを,図のようにまとめているが,

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明治憲法体制における政治システム(概念図)


「明治憲法体制において,天皇は統治権の総攬者の大元帥という絶対的な立場にあったが,同時に責任を負わないことにもなっていた(天皇無答責)。政治的選択には,必ず結果責任がつきまとう。それを担ったのが内閣や統帥部(陸軍は参謀本部,海軍は軍令部)やそれ以外の超憲法機関(枢密院など)だったのである。」

とし,問題は,

「これらがビラミッド型の上下関係ではなく,それぞれの組織が天皇に直結して補佐するようになっていたことである。たとえば,戦争指導については大元帥である天皇に直属している統帥部が輔翼…し,内閣は軍政事項(軍の行政事務。軍の規模や,それを支える予算措置など)を除いてこれにタッチできなかった。」

上記の大本営政府連絡懇談会は,こうした横並びの弊を打破するための策ではあった。

結局こういうシステムを見ていると,明治維新のツケが,結局戦争へと突入させるに至ったとみることができる。とするなら,今日,再び,戦後体制を覆して,明治体制へと戻そうとする試みは,再び,結果として,日本の壊滅へと至るのが必然であるように思える。これは,見事なループ構造に見える。しかし,一度目は,悲劇だが,二度目は,喜劇でしかない。

参考文献;
森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」』(新潮選書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:13| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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