2017年03月21日

法務官


北博昭・NHKスペシャル取材班『戦場の軍法会議:日本兵はなぜ処刑されたのか』を読む。

戦場の軍法会議.jpg


本書の中心になっている取材は,ある兵隊を,

逃亡罪

で,処刑した事件である。

「その事件が起きたのは,1945年(昭和二十年)2月のフィリピン。米軍から激しい攻撃を受けた日本軍の部隊が,ルソン島北部にある山岳地帯に追い込まれ,食糧も弾薬も底をついたため,兵士たちは飢えや病気に苦しんでいた。こうした中,悲劇は起きた。中田富太郎という二二歳の海軍の上等機関兵が,食糧を求めて周辺をさまよい,部隊を離れたため『逃亡罪』の容疑で逮捕された。『軍法会議』と呼ばれる軍の法廷が屋外で開かれ,裁判官を務めた上官たちが,中田に死刑判決を下す。そして,銃殺刑によって若い命が失われた。」

その軍法会議に立ち会った法務官は,メモを残していた。

「中田富太郎はの死刑宣告あり。これは犯罪事実自体としては死刑宣告に値せざるやに認めらるるも(中略)遂に処刑を選ぶこととしたるものなり」

中田は,奔敵未遂・略奪・窃盗の容疑で,死刑に処せられる。

「軍法会議では,通常五人いる裁判官のうち,四人を軍人…,さらに軍人の中でも階級が一番上の兵科将校が裁判長を務めていた。(中略)五人の裁判官のうち必ず一人は,『軍人』ではない『文官』の『法務官』が担当することが法律で定められていた。」

後に法改正がなされ,法務官も武官とされることになるが,戦時下での臨時軍法会議(では控訴審はない)で,法務官がこう記録しているのである。その法務官のメモには,

犯罪犯行表,

があり,その供述調書には,

「空腹に耐えかね,部隊から逃走す」

という記述がいっぱいある。

「おそらく中田も食糧をとりに部隊を抜け出して捕まったのではないか」

と,取材の過程で,体験者が語る。その人は言う。

「日本軍上層部の『現地調達』というバカな考え。これがすべての敗因ですよ。食糧を送り込まずに,現地で調達せぇ,って無茶で無謀な戦略です。それも日本軍は,前線へ行けば行くほど食糧が無いんです。米軍は逆ですよ。前線に行けば行くほど,豪華なレーション(軍に配給される食糧パック)が飛行機でばらまかれる。それに日本軍の上官連中は,食糧を独り占めにしていた。」

現地にいたもう一人の目撃者は,

「バヨンボンでおかしなことがあってな。ある戦友が突然処刑されたんや。藪の中で。」

と,

語る。法務官と同行していた録事(事務官)は

「裁判は,屋外で行われ,米軍の飛行機が頭上を通過する度に木陰に隠れて中断したこと,中央に三人の裁判官が座り,向かって上手に録事,下手に検察官が座っていたこと。そこで裁判官から罪状を告げられたこと,一一人を裁いた裁判は一時間程度で終わった」

と語り,中田上級機関兵について,

「今度逃亡したら,向こうに入ってこちらの様子がみんな分かるから処刑にされたんだ」

ということを,誰かから聞かされたことを覚えていた。中田は英語が堪能で,

「これは逃亡したら日本の軍隊の情報がみんなアメリカにつうじちゃうんじゃないか…。(中略)中田は死刑にしないとマズいという“空気”が流れたんです。」

と。

「“空気”という責任が極めて曖昧なものによって『法の正義』がねじ曲げられ,軍隊という“大の虫”を生かすために,一人の兵士という“小の虫”の命が奪われる。」

しかし,これは,ほんの一例に過ぎない。メモにはこうある。

「16名密に準備の上兵器食糧携行二月一八日逃亡せり。外に一二名は正に非ざることを知り帰隊せしをもって厳重告諭の上総員特攻に使用。国賊の汚名をそそがしめんとす。」」

つまり,

「逃亡兵を軍法会議にかけることなく,代わりに自らの命と引き替えに,敵に体当たりをする特攻作戦に使われた」

のである。体験者は,

「私はそれを逃亡だと思ってないんですよ。(中略)食うもの食わせて,飲むもの飲ませとったら,にげやしませんよ。」

そして「特攻」について,

「切り込みのことですよ。決死隊ですよ。もう行って死んで来いって。生きて帰ってくるなということですよ。これで帰ってくれば,今度はもう味方にやられるわけですよ。」

といい,そしてこう付け加える。

「上官にとって,兵隊の数が減れば“口減らし”にもなる。酷いものですよ。(中略)だけど,食べ物がないから,人を減らすしかないんですよ。(中略)食糧を捜しに部隊から一時でも離れた兵隊を,『敵前逃亡』だという罪をなすりつけ,決死隊に送れば,…責任をとがめられることもない。」

しかし,そういう汚名を着せられた,遺族は汚名を雪ぐ機会もないまま,しかもある時までは,年金までも支払われなかった。唯一の名誉回復の裁判(吉池裁判)も,請求を棄却された。

戦後軍の法務官だった人たちは,多く法曹界において大きな影響力を発揮した。そして,

「複数の元法務官は,戦争被害を受けた一般の人たちによる賠償請求を国が斥ける根拠になってきた『受任論』という考え方の形声に関わっている」

という。判決文に曰く,

「戦争犠牲,戦争損害は,国の非常事態のもとでは,国民の等しく受忍しなければならないところ」

と。法務官は,自分の責任も放棄し,責任を取るべき人間をも免責し,国をも免責するという,二重三重に,無任性を発揮したというべきである。

「軍法会議で不当に処刑された兵士の遺族は未だに苦しんでいて,名誉の回復がなされていない。…そもそも検証すること自体が不可能になっているのは事実である。“国家の非常事態だったから”,“当時の法律にもとづいてやっていたから”などの理由で,戦時中に行われたことを戦後検証することさえ避けてきた」

というより,逃げてきた法曹界である。

「誰ひとりとして,軍法会議の実態に真摯に向き合った元法務官はみあたらなかった。」

このことは,当時しかるべき地位にいたほとんどすべての人間に当てはまる。

参考文献;
北博昭・NHKスペシャル取材班『戦場の軍法会議:日本兵はなぜ処刑されたのか』(NHK出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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