對馬有輝子展(報美社)に伺ってきた。

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拝見しながら,そのデザイン性に惹かれた。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/448559206.html

で触れたが,暁斎の「雨中さぎ」に惹かれたのも,それだと思う。しかし,デザイン力というのは,ある面,

抽象化力,

だと思う。抽象化とは,具象のある側面(本質とは限らない)・性質を抜き出すことだ。しかし,デザインには,いまひとつ,

喩化力,

とでもいうべきものが必要なのではないか。喩とは,

アナロジー,

と置き換えてもいいが,むしろ,「準える」という意味なら,言語の「喩」の,

メタファー(隠喩),

と置き換えた方がわかりやすいかもしれない。表現の具象か抽象かとは別に,具体的なものを描いているからと言って,そこには,別の意味が喩えられていることもある。

今回,ずっと絵を拝見しながら,

喩,

を強く意識していた。ある場合,メタファーよりは,「白バイ」で白バイの警察官を指す,

換喩,

や,手が足りない,という言い方で,「手」で「労働力」を指すような,

提喩,

の,象徴性を強く感じさせるものがあった。メタファーについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/408700916.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163440.html

で触れた。今回,多く鳥をモチーフとした絵が多いが,むしろ,主役は,

羽,

である。それを強く象徴しているのは,

「ヒラクラヒ」
「ランマラ」

と題された,羽にうもれた鳥の絵である。

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どちらかというと,右側の「ヒラクラヒ」の構図がややまさる感じがするが,これなどは,「羽にくるまれた」,

温もり,
とか
柔らかさ,
とか,
安らぎ,

のメタファーと見てもいい。個人的には,「ツキマツキ」と題された,「蜘蛛の巣」の向こうの世界をのぞく鳥の絵が一番気に入ったが,これなど,メタファーそのものといっていい。何を隠喩しているかは人によって違うが,人は,蜘蛛の巣のようなものに絡めとられているだけなのに,それを破ろうともせず,未知の世界にあこがれている,と見てもいいし,いましも,その縛めを解き放って彼方へ行こうとしているとみてもいい,あるいは,蜘蛛の巣越しに見える世界をのぞき見ている状態表現そのものと見てもいい,あるいは,蜘蛛巣に捕えられてしまった自分と見てもいい(蜘蛛の巣は何かの象徴かもしれない)。何が正解かは,人のもつ世界観を反映する。

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デザイン性が強い,ということは,

図と地のバランス,

というよりは,図の配置に取り方といっていい。配置は,図の見せ方,あるいは,焦点の置き方なのだが,その工夫にはちょっと惹かれるところがあった。

作家の方は,「切り絵」のように,構図や配色を塩梅していく操作をしている,という趣旨のことを言っておられたが,それを伺って感じたのは,その操作で,図の配置のデザイン性を産み出すとともに,そのワンクッションの操作で,丸まり方というのか,捨象のされ方というのか,あるいは脱色のされ方というのか,一種の象徴度が高まっていくのだろう,としいうことだ。

それが,全体に象徴性の強い図柄の印象を与えるのかもしれない,と納得させられた。しかし,あえて言うなら,上記の,「ヒラクラヒ」「ランマラ」には,羽の表情はあったが,羽根には表情がなかった。もし,一枚一枚の羽根に表情があったら,どんなメタファーに変るのか,個人的には興味が湧いた。

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