2017年04月17日

異化


エルンスト・ブロッホ『異化』を読む。

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(白水社版)


エルンスト・ブロッホの『異化』(本書は,船戸満之・守山晃・藤川芳朗・宗宮好和訳)には,現代思潮社(1971年)がある(片岡啓治・種村季弘・船戸満之共訳)。本書の「異化Ⅰ ヤヌスの諸像」のみを訳したものだ。若い頃,それを読んだ記憶がある。だから,全体の訳が出た時すぐに入手したが,そのまま今日まで,数十年も書架の風景になっていた。本書は,

異化Ⅰ ヤヌスの諸像
異化Ⅱ ゲオグラフィカ

の全訳である。これで,若いころの積み残し,長年の未完了を,漸く完了させたことになる。

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(現代思潮社版)


ところで,現代思潮社版は,箱に,マッハの自画像を載せている。寝椅子に横たわる自分が,自身にどう見えるかを示している。マッハはこの奇妙なデッサンを,「自我の自己観察」と名づけた。鼻の左側に開けた視界に,肩の突端になびく髭,下方にむかって短縮された遠近法で,胴,肢,足と順次つづいていく。

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(マッハ「自我の『自己観察』」)


原画は,マッハの『感覚の分析』に載る。そこでマッハは,こう書いている。

「例えば,私が安楽椅子によこたわって右の眼を閉じると,左の眼に,上図のような映像が映る。眉毛半弓,鼻,および髭からなる枠の内に,見える限りでの私の身体の一部とその周囲が現れる。私の身体は他人の身体から次の点で区別される。すなわち,活発な運動表象が直ちに私の身体の運動となって現れ,それに触れると他の物体に触れた場合に比べて一層目立った変化が生ずるということのほかに,自分の身体はただ一部分しか見えず,とりわけ頭が見えないことによってである。」

ブロッホは,「鏡なしの自画像」で,

「この自画像は見るものから隔たっていない。ただまさに主体が,その自画像の中心においてまったく姿を現さないのだ。首なし,それが自分で自分を見たときの人間というものである。」

とした上で,

「書き手自身のこの首なし像は,自画像の歴史におけるひとつの新事象」

と評した。そして,それは,人間の自己意識の象徴ですらある。対自も即自も,所詮自分自身でしかない。そして,

「人間は一日中そのように―首はなく,胸と肩はまじかに接し,その他は下方に縮小して遠ざかっている―自分を見ているにもかかわらず,それは,私たちにとってあたりまえすぎる所与の事実であり,そしてことさら…マッハは,それを『反形而上学』のために,まぎれもない表面として描いて見せたのだ。にもかかわらず,この絵はマックス・エルンストのものであるかのように,シュルレアリスムそのもののごとくに,働きかける。その表面はひとつの深淵なのだ。」

として,鏡に映る自分と対比しつつ,こう結論づける。

「真の人間は,いまだこの鏡に映る姿の外にある。苦しみも,希いも,生産も,享受も,いまだ真にふさわしいものとなってはいないし,自分の名さえいまだ正確には知らない。人間存在のこの真の主体は,外から見たときの姿としてあるというより,むしろ,自分で自分で見たときのあの姿なのだ。すなわち,首は見えず,根本思想は凝集されえず,中核としてただやっと大脳の知覚思考だけはあるが,視覚も自分自身との出会いも実現しえていないのである。物を見る眼は,眼それ自体を見るに至っていない。歴史を創りだす人間も,まだ自分自身を創りだしていない。自己という意味をどんなに単純にとるにしろ厳密にとるにしろ,これが真の自画像である。」

と。そして,これは,本書の冒頭の,「呼びさます」の,

「人は,とにかく,ある。〈私はある〉(ダス・イッヒ・ビン)も,ときにはそこにあるように思われる。しかし,つねに中途にあるにすぎず,あまりにも自分に近すぎる。〈(私は)ある〉(ビン)は,けっして自分の外へ出ることはない。」

と共鳴し合う。そして,「鏡なしの自画像」の末尾につながる。

「もちろん,このポートレートを出来上がりとするためには,首の部分を白紙のまま放っておくことはできない。そこは,希望の置かれるべき場所であり,首なしのままでいるわけではなくて,まさにそこでは希望が自らを創造しているさなかなのである。」

こうした表現スタイルが,ブロッホの言う,「異化」に他ならない。「異化」については,「疎外,異化」の項で,

「『異化効果』は,事件の過程や人間の性格が自明のものと見なされることのないよう,それらを慣れ親しんだものかずらすこと,置き換えることとして現れている。」

とする。つまり,ありふれた地に別の輪郭を描きだすことで,同じものに異なる図を際立たせること,と言い換えてもいい。マッハの絵を,マッハの文脈から切り離し,新たな自画像として,そう,まだ描かれていない,これから描きだされるべき主体として,図化して見せたということになる。

僕には,博覧強記なブロッホの,屈折した陰翳のある含意を到底読み解き切れないが,たとえば,「大いなる瞬間,きづかれずに」の項で,

「重大な意味をもつ〈いま〉と〈ここ〉とが現れているときですら,それはめったに気づかれることがないのである。歴史はこの種の例をつぎつぎと積み重ねてきたが,誰もそこから学んだ者はいない。しかし,これはみなかつて起こったことなのだ。つまり,誰の注意も惹かない人間が目立たずに入ってきて,そのときは何も予期していなかった人々が,あとになってはじめてここで何が起こったかを知るのである。ルターが提願を貼り出していたあいだに,城内教会の広場の上にその槌音が響いた瞬間があった。むろん,誰もその音に耳をそばだてていたわけではない。若き日のベートーヴェンはモーツアルトの前で演奏し,またヘーゲルはベルリン大学の一室でショーペンハウアーの教授資格試験を行った。これを人は見ることができた。実際,耳で聞き,目で見た人もいたのだ。この驚くべき瞬間を,その〈いま〉ならびにとりわけまだまったく未展開の内容を,理解しながらその場に臨んでいた人は一人もいなかったのである。リヨンでのある夜会の折に,若い少尉が出版業者に原稿を渡そうとしていた。出版業者は以前からその原稿に関心を示していたのだ。しかし,その夜会にはあるテノールも出席しており,自分の作品を提供しようとしていた若い少尉よりもずっと注目を集めていた。少尉はたしかに名前を名のったのだが,そうしたことはみんな,ヴィッテンベルクで鳴り響いていた鎚の音にも劣らず,何の意味ももたなかった。すなわち,こうしてユリウス・カエサルを描いたナポレオンの著作は日の目を見ることなく終わったのである。これらすべてのケースでは,〈いま〉と〈ここ〉の闇に,いずれにせよまだ瞬間的である,人生行路の始まりというものが付け加わっていた。しかし,まさにその始まりにあっては,視線の軌道が人生行路の中へ進行することは皆無といってよい。実際また,どうすればその時点ですでに核心において知ることができるというのか。闇の中では―これこそ意識のこうした特別の狭隘さにおけるキーポイントであるが―ライオンの鉤爪すら見えなかったのだ。
 ほかの点ではすでに十分ライオンになっていたが,それでも闇の暗さは変わらなかったということがある。侍従たちの前だけではない。英雄たちのあいだでもそうだったのだ。英雄同士はお互いにそれを認めることはないのである。あるとき,シラーのところを若い同郷人ヘルダーリンが訪ねた。訪問の終るころ,ずんぐりした体格の男が一人その席に加わった。この男は簡単な挨拶のあと,部屋の隅に坐って邪魔にならないようにしていた。ヘルダーリンは,いよいよ辞去するときになってはじめて,どこか地主のように見えたこの男が,シラーで部屋での予期せぬ〈いま〉と〈ここ〉,そればかりかまさに邪魔な印象を与えていた〈いま〉と〈ここ〉が,ゲーテであったことを知らされたのである。」

と,あとになって気づく〈いま〉と〈ここ〉について書くくだりがある。訳者は,その文章の中に,いろいろなもじりが埋め込まれている,という(「侍従たちの前だけではない」は「侍従たちの前ではナポレオンも英雄ではない」という格言らしい)。ただものの見方を示す,文章自体が異化であるばかりではなく,埋め込まれた博覧強記の文脈自体が,また異化されている。そして,全体として,物の見方を異化させる,という何重にも折り畳まれた仕掛けがあるということは,到底非才の眼には見抜けない。

ある意味,本書の文章そのものもまた,文体の異化に他ならない。例えば引用した文章は,その地に異質な図をいくつも折り畳んでいる。それは,読み手の知力に挑戦しているように見える。(竜馬の西郷を喩えた言い回しに準えるなら)読者の知に応じて鳴る鐘のようである。凡庸非才の我身には聞こえる音はわずかであった。

参考文献;
エルンスト・ブロッホ『異化』(白水社)
エルンスト・マッハ『感覚の分析』(法政大学出版局)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 04:58| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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