2017年05月08日

方面軍


和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』を読む。

信長家臣団の派閥.jpg


「織田信長の最晩年には,天下統一を目指して各地の戦国大名と戦う『方面軍』ともいうべき軍団が編成されていた。それぞれ万単位の軍勢を擁し,当時としては大軍団である。これらの軍団は一朝一夕にして出来上がったものではない。信長の手足となって各方面で敵軍を破り,敵将の旧臣を家臣化するなどして拡大していった。また,大敵に対しては信長から与力を付けられて軍団を補強していた。軍団は脹れ上がっていったが,中枢部は軍団長の一族や同郷出身者が占めていた。」

こういう背景を踏まえて,本書では,

「前半は時系列で信長軍の拡大を追いかけ,後半では信長の支配領域の拡大とともに増強されていった方面軍の成長過程を,地縁・血縁関係を横軸に交えながら眺めていきたい。軍団を構成した有力武将と軍団長との地縁・血縁を確認していくことで,その軍団の強さの秘密を知ることができる。」

とその趣旨を述べている。地縁・血縁は,

「戦国時代は,地縁・血縁の紐帯によって堅く結びついていた時代だったと言われる。…成り上がり者の戦国武将などは,自分と同じ出身地の者を家臣化していった。最も信用できるからである。血縁についてはそれ以上に重きをなした。敵対する戦国大名同士が和睦する時には,婚姻関係を結ぶことがあるが,婚姻が最も手っ取り早く効果があったからである。」

武田―織田,織田―浅井,織田―徳川等々,織田信長も積極的に使っていた。

本書は,方面軍を,

織田信忠軍,
神戸信孝軍,
柴田勝家軍,
佐久間信盛軍,
羽柴秀吉軍,
滝川一益軍,
明智光秀軍,

と順次紹介しているが,突如追放された重臣・佐久間信盛軍の特徴を,

「信長と直接縁戚となることもなく,有力武将とのつながりも薄く,追放処分の抑止力となる人的ネットワークを持たなかったため,簡単に追放されてしまった。」

と書く。では,柴田勝家はいうと,信盛が家督相続時の苦境でも見捨てず支持し続けたのに対して,信長の弟信勝をたてて信長廃嫡を謀っていたのに,たとえば,

「滝川一益に嫁した(勝家の)妹もいる。一益の娘「於伊地(おいち)」は勝家の子権六に嫁しているので,柴田家と滝川家は重縁で結ばれていることになる。…ルイス・フロイスの書簡には,天正九年にフロイスが当時の勝家の居城だった越前北の庄を訪問した時のことが記されており,それには,『信長は彼(勝家の嫡子)に嫁がせるため娘を一人与えた』とあり,勝家嫡男に信長の娘が嫁していることを記している。一益の娘を信長の養女として嫁がせたのだろう。」

という勝家の人脈,あるいは,卑賤の身から身を起こした秀吉には,譜代の家臣はおろか,一族も少ないため,

「地縁・血縁を頼ったのはもとより,同じ織田家中に『兄弟の契り』を結ぶ武将を求めて人的ネットワークを拡大したり,さらに主君信長の御曹司を養子に貰い受けて一門衆にも連なり,その地位をより安泰ならしめた。」

という秀吉の人脈づくり,と比べても,信盛軍が自己完結した軍団だったことが浮びあがる。

「織田家最大の佐久間信盛の軍団を解体することで,与力の近江衆は信長の直臣に組み入れ,尾張衆は信忠に附属させた」

が,それが追放の動機だったとしても,人脈強化が,生き残りの戦略に不可欠だったことをうかがわせる。たとえば,秀吉は,

「譜代の家臣を持たないことに加え,朋輩との姻戚関係もないことから,これと見込んだ人材には,とことん密着した。その一人が黒田(官兵衛)孝高であり,中川清秀だった。ともに義兄弟の契りを結んでいる。黒田孝高宛の書状には,『我ら弟小一郎め同然に心安く存知候』と伝え…」

ている。中川清秀は,

「(信長が清秀の)嫡子秀政に息女『鶴』を娶せ,一門衆として待遇」

されている。さらに,

「信長時代の秀吉は,譜代家臣をもたないために与力(蜂須賀正勝,竹中重治など)や新参の家臣も大事に扱い,合戦を経るごとに,秀吉への従属度を増していった。荒木村重旧臣の荒木重堅(木下半大夫)や津田左馬允(盛月)など信長から睨まれている武将も秘密裏に助けて家中に取り込んでいる。」

明智光秀の軍団も,特徴がある。

「光秀軍の家臣団構成は,…他の方面軍に比べて異質なのは,光秀と同郷の美濃出身者はいるが,尾張衆が皆無に近いことである。信長の目付の存在も知られていないし,変直前の謀議に加わった五人の家老衆も尾張出身ではない。家臣団自体も近江志賀郡や丹波を領地にしたことで,西近江衆や丹波衆が中心である。また,旧幕臣衆も配下に加えている。旧幕臣衆は,信長を恐れて義昭を離れたに過ぎず,信長から見れば敵性勢力ともいえる。光秀が信長を討つと打ち明けても,反対するどころか賛成したかもしれない。ただし,光秀もそこまでは信頼していなかったと思われ,内談した形跡はない。もし,事前に相談していれば,毛利に庇護されている義昭の担ぎ出しを積極的に進め,大義名分を含めて大戦略を打ち出せただろう。」

信長.jpg

信長

勝家柴田.jpg

柴田勝家


しかし,こうした,

目付がいない,
尾張衆がいない,


という光秀軍の特徴が謀叛を成功させた要因になる。

「光秀軍に有力な尾張出身者がいれば,信長に対する謀反であると知れたときは,どうなっていたか分からない。逆に光秀を討ち取っていたかもしれない。光秀はクーデター最中にどういう異変が起こるかもしれないと用心し,本陣は本能寺から距離を隔てていたのもそういう配慮からだろう。」

羽柴秀吉.jpg

羽柴秀吉


光秀.jpg

明智光秀


結局,謀反成功の要因は,直接の動機は別として,畿内が真空地帯となっていたことに加えて,明智軍自体が,外様(旧敵性部隊)中心で,他の部隊と切れた自己完結した部隊であったこと等々が見えてくる。

参考文献;
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(中公新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 04:51| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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