2017年05月13日

戦争論


クラウゼヴィッツ『戦争論』を読む。

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クラウゼヴィッツの主張は,実にクリアであり,論理的である。

「戦争は政治的交渉の一部であり,従ってまたそれだけで独立に存在するものではない」

とするクラウゼヴィッツの「戦争」は,あくまで政治的目的達成の手段である。間違っても,戦争が目的化されることはない。だから,戦争になったからといって,

「交戦両国間の政治的交渉が断絶し,これとはまったく別の状態が現れる,そしてこの新奇な状態は,それ自身の法則に従う」

などとは考えない。

「戦争は政治的交渉の継続にほかならない,しかし政治的継続におけるとは異なる手段を交えた継続である」

と見なす。なぜならば,

「第一は,政治的交渉戦争によって断絶するのでもなければ,またまったく別のものに転化するのでもない,たとえこの場合に政治的交渉に用いる手段がいかなる種類のものであるにせよ,依然としてその本質を保持する,ということである。また第二は,戦争における一切の事件の辿る主要な線は,取りも直さず戦争を貫いて講和に至るまで不断に続く政治交渉の要綱にほかならないということである」

からだ。だから,

「戦争は,とうてい政治交渉から切り離され得るものではない。もしこの二個の要素を分断して別々に考察するならば,両者をつなぐさまざまな関係の糸はすべて断ち切られ,そこは意味もなければ目的もないおかしな物が生じるだけだろう。」

という。そう考えれば,

「戦争によって,また戦争において何を達成しようとするのか,という二通りの問いに答えずして,戦争を始める者はおるまい。また―当事者にして賢明である限り―戦争を開始すべきではあるまい。この問いの第一は戦争の目的に関し,また第二は戦争の目標に関する。,
 これら二件の主要な思想によって,軍事的方向の一切の方向,使用さるべき手段の範囲,戦争を遂行する気力の程度が規定されるのである。そして戦争計画は,軍事的行動の極く些細な末端にまでその影響を及ぼすのである。」

というのは当然なのである。しかし,『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』

http://ppnetwork.seesaa.net/article/448110449.html

で触れたように,大戦への意思決定をした連中は,目的と目標,戦略と戦術の見極めもつかず,

「成算があるのは緒戦の資源地帯占領作戦のみであった。長期戦の見通しは『不明』」
「開戦三年め以降の見通しは不明」

であるにもかかわらず,終着点もないまま開戦に踏み切り,果ては,目的も目標も見失い,戦うこと自体を自己目的化して,カミカゼというような自爆テロの嚆矢となる愚行を考案し,ついに全国民を道ずれに破滅に突入した。恐らく,今も,戦略と戦術,目的と目標の区別がつかない為政者が国の舵を取り,それを半数以上が支持し,地獄へと向かっている。一度目は悲劇だが,二度目は喜劇というか,お笑い草である。

クラウゼヴィッツ自身,

「通説となっているようなものはすべて排除した。二年か三年たてばすぐに忘れ去られるような書物を創ることは,私の自尊心が許さなかった」

と自ら述べるように,戦争手段は圧倒的に変化し,大量破壊兵器は破滅的になったにしろ,戦争をどう位置付け,どう戦争を終結するか,ということについての基本思想において,その理論的骨格はいまだ十分に有効である(もちろん,一旦始まってしまうと,それを忘れて,戦争自体が自己目的化することは,あるにしても)。

「戦争は一種の強力行為であり,その旨とするところは相手に我が方の意を強要するにある。」

「戦争においては,かかる強力行為,即ち物理的強力行為は…手段であり,相手に我が意を強要することが目的である。…この目的を達成するためには,まず敵の防御を完全に無力ならしめねばならない,そして強力行為という建前から言えば,このことこそ一切の軍事行動の目標なのである。」

等々という書き方をする。特徴は,目的と,その手段としての目標という,目的-目標のツリー構造を決して外さない,論理的な論旨であるところにある。それは,戦略と戦術の区別と置き換えてもいい。

たとえば,

クラウゼヴィッツは,

「およそ戦争は,盲目的な激情に基づく行為ではない。戦争を支配するものは政治的目的である。それだから政治的目的の価値が,この目的を達成するために必要な犠牲の量を決定せねばならない。そしてこの量は,犠牲の大小だけに関するのではなくて,犠牲を払う時間の長短にも関係するのである。それだから戦力の消費が増大して,政治的目的の価値がもはやこれと釣合わなくなれば,この目的は放棄され,けっきょく講和が締結されざるをえなくなるのである。」

とし,その目的とそのための手段たる目標は数多くあり,さらに,その目標に達する道は数多い。たとえば,末端の戦術でも,

「或る歩兵大隊が,敵を或る山地或は橋梁その他から駆逐せよという任務を受領したとする,その場合にはこれらの対象の占領が本来の目的であって,該地における敵戦闘力の撃滅は単なる手段であるか,或は付帯的な任務に過ぎない。もし敵が我が方の陽動だけで駆逐されるとしたら,それでも当面の目標は達成されるのである。…我が方がこの山地,この橋梁を占領するのは,…これによって敵戦闘力の撃滅を促進するためにほかならない。」

のである。しかも,戦争行為が,

「第一は,ここの戦闘をそれぞれ按排し指導する活動であり,また第二は,戦争の目的を達成するためにこれらの戦闘を互いに結びつける(組み合わせる)活動である。そして前者は戦術と呼ばれ,後者は戦略と呼ばれる。」

からなっていると見るなら,上記の例は,戦術の一端に過ぎない。しかし,それぞれの戦術をどう組み合わせて,目的達成へとつながっているという意味では,その戦術は,戦略達成の意味のある手段でなくてはならない,という訳である。

「目的が,講和に直接つながるものでない限り,つまり従属的な目的に過ぎなければ,やはり手段と見なさざるを得ない。」
「戦略の旨とするところは,戦争の目的を達成するために戦闘を使用するにある。」
「戦闘は,戦争における唯一の有効な手段である。そして戦闘においては,現に我が方の戦闘力に対峙する敵戦闘力の撃滅こそ,目的を達成するための手段なのである。」
「戦術は,戦闘において戦闘力を使用する仕方を指定し,また戦略は,戦争目的を達成するために戦闘を使用する仕方を指定する。」
「戦略の旨とするところが,戦争の目的らを達成するために戦闘を使用するにあるとすれば,戦略は全軍事的行動に対して,戦争の目的に相応するような目標を設定せねばならない。」
「現実の戦争は,戦争そのものの法則に従うのではなくて,或る全体の一部と見なさねばならない。そしてその全体というのが,取りも直さず政治なのである。」

等々。今日でも,

「政治は,戦争を道具として使役する。」

という原則は,厳然として生きている。僕個人は,

戦いになったら,政治の失敗,

と思っているが,そうではなく,政治目的利用のために,「戦争を使役する」政治家は後を絶たない。

参考文献;
クラウゼヴィッツ『戦争論』(岩波文庫)
森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」』(新潮選書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 04:48| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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