2017年05月19日

武田氏滅亡


平山優『武田氏滅亡』を読む。

武田氏滅亡.jpg


本書は,長篠の合戦から,勝頼の自刃までの,滅亡の過程を,詳細に辿る。同じ著者の,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409410768.html

で触れた,『長篠合戦と武田勝頼』と,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409358085.html?1416602810

で触れた,『検証 長篠合戦』につづく著作になる。著者は,本書の意図を,

「なぜ武田氏は滅亡したのか。私は,勝頼が長篠敗戦後どのような動きをしていたかを詳細に探ることで,彼の成果と蹉跌を見極めようと考えた。」

とする。そのプロセスを,日を追うように,つぶさにフォローしていく。本書は,八百ページに及ぶ大著である。

従来,織田側中心,つまり勝者の視点で見られた同時代を,勝頼側,つまり敗者側から見てみると,まったく風景が変わる。歴史は,当たり前のことだが,ひとり勝者のためにのみあるのではない。しかし,滅亡へのプロセスを読むのは,結構しんどい。

追い詰められた勝頼主従は,(織田方に勝頼に味方したと認められて討伐対象になるのを恐れた)その一帯の天目山の地下人らに入山を拒まれて,麓の田野で自刃する(戦死とする説もある)。

「(勝頼に)殉死した人々を見ると,勝頼の高遠時代以来の家臣が多く,その他諏方衆とみられる人々も見受けられる。これに対し,武田の譜代では土屋・秋山兄弟が目立ち,跡部・河村・安西氏がいるだけである。小山田一族にも,勝頼に殉じた者がいたようだが,山県・内藤・馬場・春日などの上級譜代の縁者は一人もいない。高遠城の奮戦といい,殉死者の構成といい,勝頼はやはり武田勝頼ではなく,どこまでも諏方勝頼としての運命を背負っていたとの印象が強い。」

と著者は書く。このことは,信玄と嫡子義信の確執による,義信廃嫡がなければ,勝頼は,あくまで,

諏方(すわ)四郎勝頼(俗に「伊那四郎」),

であって,「武田勝頼ではな」く,武田を継ぐようには位置づけられていなかった(信玄と諏方頼重息女との間に生まれた)。

「勝頼は生まれながらにして諏方家の通字『頼』を頂く,諏方氏の家筋の人物として遇されていたのであり(信玄の息子たちのなかで,武田氏の通字『信』を頂いていないのは勝頼だけである),長じて伊那郡高遠城主に就任したのも伊那の統治に勝頼を登用することでその地域(もともと諏方氏の地盤)の安定が期待できると,信玄が考えたためであろう。」

勝頼像.jpg

(勝頼像・高野山持明院蔵)


その意味では,義信の謀反・廃嫡は信玄自体にも誤算であったが,武田家全体にとっても,想定外であった。

「諏方勝頼が武田家の家督を相続すること」

の意味することは,かなり重要である,と著者はこう書く。

「南北朝動乱期に,南朝方となった武田政憲(まさつな 石和流武田氏)が没落して以降,武田信武(安芸守護)以来,甲斐守護武田氏の家督を連綿として継承してきた信時流武田氏の家系が,初めて他国の一国衆出身の男子によって継承されることを意味したからである。
 武田氏はそれまで,甲斐源氏の支流,傍流を問わず,家督の簒奪を目論む勢力(逸見・今井・油川など)と激しく戦い,それらを排除することで家系を維持してきた。ところが今回,武田氏にとってかわってかつての宿敵諏方氏の当主を,信玄の男子とはいえ惣領として迎え入れることになったわけであり,それは諏方の家系による争いなき武田総領家の簒奪を意味するともいえる事態になったのである。」

その勝頼の微妙な立ち位置は,不安定で,重臣との間の確執があったとされる。それに輪をかけたのは,信玄の遺言である。それは,

「①勝頼は嫡男武王丸信勝が成人したら速やかに家督を譲ること(勝頼はそれまでの陣代(中継ぎ)である),②勝頼が武田軍を率いる時には,『武田家代々の旗』『孫子ノ旗』など武田家当主を象徴する一切の事物をの使用を禁ずる。勝頼はこれまでも彼が使用していた『大』の字の文字をあしらった旗(長篠合戦図屏風などでよく知られる旌旗)のみを掲げるようにせよ。③ただし諏方法性の兜の着用は認める」

というものである。これでは,勝頼の地位は不安定であり,その中で,おのれを示すために,勝頼が葛藤したであろうことは,想像に難くない。そんな中での長篠の合戦であった。

武田家を滅ぼした張本人として,世上勝頼は評判が悪い。しかし,

「武田氏は,長篠敗戦後も,必死に立て直しを行い,御館の乱終結直後は,武田信玄時代よりも広大な領国を誇るに至った。とりわけ北条氏は,勝頼による北条包囲網に苦しみ,関東の領国を侵食され,悲鳴をあげていた。
 天正十年の織田侵攻が始った当時,北条氏は勝頼が滅亡するとはまったく思っておらず,天正十年一月から二月の戦局を誤報だと信じて疑わなかった。織田信長もまた,勝頼はどこかで乾坤一擲の決戦を挑んでくるに違いないと信じ,息子信忠では荷が重いと焦慮していた。信長もまた,勝頼があっけなく滅亡するとは思っていなかったのだ。」

事実,同時代の人々には,有能な人物であり,その滅亡は「運が尽きた」と認識されていた,という。

武田勝頼妻子像.jpg

(武田勝頼、夫人、信勝画像/持明院所蔵)


では,なぜあっけなく亡んだのか。著者は言う。

「勝頼には,幾つかの転機がったと思う。それは大きく,甲相越三国和睦構想,御館の乱,高天神城の攻防戦であろう。それらへの対応が,勝頼の生き残りの可能性を狭めていったといえるだろう。
 だが勝頼の対応や判断は,流動的であり,かつ多様さが縺れあう当時の情勢に規定されており,彼だけの問題ではなかった。上杉,北条,徳川,織田,毛利,本願寺などの大名や,中小国衆,足利義昭らの思惑に規定され,勝頼自身が予想もしなかった展開をもたらしたこともあった。そうした意味で,滅亡の要因を勝頼の個人的資質にすべて押し込めて説明できないことだけははっきりしたであろう。調査,分析を行う過程で私が感じたことは,信長がいみじくも勝頼の首に語りかけたように,彼には『運がなかった』ということである。」

と。信長は,『三河物語』によれば,

「日本に隠れなき弓取りなれ共,運尽きさせ給ひて,かくならせ給ふ者かな」

と言ったとある。しかしその信長も,二ヵ月後,本能寺で倒れる。その原因は,武田攻略戦の最中の,光秀との確執にあるらしい。

さらに,一族で早くから徳川に内通していた穴山梅雪も,堺で家康とともに本能寺の変に遭遇し,帰る途中で,殺される。

参考文献;
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%A0%BC

ホームページ;
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今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:02| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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