方の会第六十回記念公演『幕末明治・高橋お伝』(原案・福原秀雄,作・若菜トシヒロ,演出・狭間鉄)を観てきた。
僕自身もそうだが,お伝について知っている人は,もはや少ない。概要は,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E3%81%8A%E4%BC%9D
に詳しい。実像はともかく,ここでは,お伝は,武家の出で,姉の敵討ちをしたにもかかわらず,その証拠も探し出したが,既に世間では毒婦として,センセーショナルに喧伝されており,一種の政治的な道具として,懲罰的に処断された,というストーリーで,言ってみると,本当は,死罪ではなく,減刑されるべきなのに,裁く側の事情と論理で押しつぶされた,という構造である。。
お伝・写真
所謂,本当はこうだった式の物語として,それなりの結構は保たれているし,面白さもある。しかし,どこか既視感がつきまとう。
個人的な好みで言うと,ラスト近くで,判事補(だと思う)とその妻の,お互いにかみ合わない,会話(というより独語)のやり取りが非常に象徴的で,人は,誰でも(人に語りたい)自分だけの物語をもっている。確か,フランクルだと思ったが,
誰でも人に語りたい自分の物語がある,
という趣旨のことを言っていた。だから,ここでのお伝の
仇討,
というのも,お伝の語りたい物語であり,世間の言う,
明治の毒婦,
というのも,また面白おかしい物語であり,取り調べ記録にある,
「診断書、関係者の証言で、犯行が裏付けられ、ついに自供」
というのもまた,ひとつの物語に過ぎない。『藪の中』ではないが,それぞれ独自の物語であって,どれが正しいかは分からない,というストリーリーの方がはるかに,(今日これを取り上げるという意味で)現代的ではないか。そう,判事補夫妻が,互いに,自分の物語を,かみあわないまま,一方的に語り続けていくように。
高橋お伝(小林清親画)
この芝居の結構では,本当はお伝の語る物語が事実なのに,そうはならなかった,という,
お伝に同情する視点,
には,どうしても,「本当はこうだった」というストーリーの既視感を拭えない。本当はどうだか,もはや誰もわからない。だから,お伝は,
仇討ストーリーを語り,
取り調べ側は,
毒婦ストーリーを語り,
死んだ夫は,
よく面倒を見てくれた妻というストーリーを語り,
遊び人の市太郎は,
カモとしてのお伝を語り,
この並行した,重なることのない物語の重層の中に,お伝の物語があるのではないか。人は,社会的な存在であり,自分が語る物語だけではなく,周囲の人の語る物語の中に,自分がある,のではあるまいか。僭越ながら。そういうストーリー構成がいいと,観終わって感じた。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E3%81%8A%E4%BC%9D
http://meiji.bakumatsu.org/men/view/78
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
この記事へのコメント