2017年06月13日

自己分析


K・ホーナイ『自己分析』を読む。

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本書の自己分析とは,セルフ精神分析を指す。いわゆる「自分を知る」という類の自己分析ではない。

著者は,「まえがき」で,精神分析の必要性が高まっているが,精神分析の専門的援助をすべての人にはカバーできない,とした上で,

「自己分析が重視されるのはこのためである。『自分を知る』ということは,ただ結構なことであるというだけにとどまらず,それはまた可能であると,これまで考えられてきた。その努力が分析的諸発見によってい大いに助けられたことは否めない。一方,精神分析の発見こそが,自己を知るという精神分析的な自己検討の可能性を論ずるには,楽観と同時に謙虚さが要求されるのである。」

と述べて,

自己分析の手順,

を提起する本書の試みを位置づけている。そして,冒頭で,(精神分析的な)

自己分析は可能か,

という問いに,

「分析とは個人を内なる束縛から解放させて,彼自身の潜在能力を最高度に発揮させることである。(中略)以上のように精神分析の積極的な目標を立てることは,患者に次のような意欲がありさえすれば確かに実際的な価値がある。すなわち,自分の有する才能がたとえどんなものであろうと,それを伸ばそうとするきわめて旺盛な意欲である。つまり天与の才を具現させていく意欲,きびしい試練にときには出会うであろうが,それでもなお,自己を把握理解しようとする意欲,要するに成長しようとする意欲,これである。」

というのが,「分析を促進させる原動力」となる,と著者は書く。さらに,専門的分析者には,

第一に,無意識的欲求の性質,無意識的欲求の顕現法,無意識的欲求の原因,無意識的欲求の影響,無意識の解明など,心理学知識が必要,
第二に,一定の訓練を経た技能,
第三に,分析者自身の徹底的な自己認識が必要,

の資格が要ると,著者は挙げるが,自己分析の場合,他人を分析するのとは違い,

「われわれ一人ひとりの世界は,われわれにとって未知のものではない,という事実である。実際われわれが本当に知っているのは唯一人だけである。たしかに神経症者は現実の世界の大部分から隔たり,現実の世界を見まいとする気持ちにかられている。さらにまた神経症者は自分について熟知しているので,ある重要な要因を重視しすぎる危険がある。しかしそれは彼の世界であり,それについては彼は多少なりとも知っており,その世界に近づくために彼は観察し,この観察を利用するという事実は変わりがない。もし彼が自分の障害の原因を知ることにも興味があり,それを知る際の抵抗を克服できれば,ある点では第三者よりも上手に自分を観察できる。結局彼は自分自身と朝晩つき合っているわけである。それ故,自己観察は,ちょうど頭のいい看護婦が終始患者と一緒にいるのにたとえられるだろう。」

として,専門分析者の資格のうち,第一を軽視し,第二を廃止できる,という。

「自己分析の非常なむずかしさは,これらの知識や技術にあるのではなく,無意識的欲求に対してわれわれを盲目にしてしまう感情的要因にある。つまり,自己分析の主な障害物は知的なものよりは感情的なものである。」

だから,自己分析の障害は,

理論的,

でもないし,

危険性,

でもない。むしろ,

「自己分析実施中の人がまだ自分の耐えられないほどの洞察を引き出すような自己観察をしないことがある。あるいはその観察の中心点のはずれた解釈をあたえることもあろう。あるいはまた自分がまちがっていたと感じた態度を手早く表面的に訂正しようとするだけで,それ以上の自己探究は放棄してしまうこともあろう。つまり,自己分析における実際の危険性は,分析者による分析よりは少ないのである。というのは,分析者,しかも敏感な分析者が,まちがって時期尚早の解釈を患者に与えるのにくらべれば,自己分析では患者は直観的に何をさけるべきかをしっているからである。」

と,分析が浅いとか,中途半端とか,といった限界の方が大きい,と著者は言う。そして,多く成功した自己分析は,多く,

「自己分析を試みる前に分析を受けていたということである。ということは,彼らは分析方法に通じており,また自分に対し容赦なくかつ忠実なことが効果があることを経験的に知っていたことである。そのような前経験なしに自己分析は可能かどうか,またその程度はどうかが,未決の問題としてのこされなければならない。しかし,次のような勇気づけられる事実もある。それは分析的処置を受けにくるまでに自分の問題に正確な洞察を得ている人がたくさんいるということである。」

と。で,一番効果ある自己分析は,

精神分析過程に生じる長期の休止期間中,

だと,著者はいう。専門家による,精神分析とセットの自己分析が,もっとも効果がある,ということになる。自己分析手順の,

臨時的自己分析,

系統的自己分析,

と紹介された方法の中では,前者は,

「健全と神経症的との間には,画たる境界線があるわけではないから」

機能性頭痛,
不安発作,
機能性胃痛,
恐怖,
立腹,

といった,強度の神経症ではない,日常起きるちょっととしたトラブルは,

自己理解の一歩,

として有効であるように見える。著者は,

「自分の能力を最高度に伸ばそうとする深い,もっと積極的な意欲とは異なる」

とはいうが,起こっている自分を通して,自分の怒りの対象が,相手ではなく,自分自身(の性格や隠れた要求)であることに気づくなど,それなりの自己理解の一助にはなる。

しかし,終始気になったのは,自己分析例の中で随所に出てくる,自己分析に対する,浅いとか,見落としたとか,といった評である。その著者の姿勢にほの見える,アドラーに感じたのと同じ,自分に正解がある,という姿勢である。

アドラーについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395411257.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/437675329.html

で触れた。もちろん時代の制約もあるが,ロジャーズの次の言葉が,反照のように浮かんでくる。,

「『それはこうである』と言うよりも,私たちは『それはこうだと思う』という言い方をしたいと思っている…。」

「自分自身に他人を理解することを許すことができるならば,それはたいへん価値があることがわかった。こういう言い方は奇妙に聞こえるかもしれない。他人を理解するように自分を許すなどということが必要なのだろうか。私は必要だと思う。私たちが他人の言葉を聞いたときの最初の反応は,たいていの場合,最初は,それを理解することよりも,すぐに評価したり,判断を下したりするものである。誰かが,その感情,態度,信念を述べると,たちまち,『それは正しい』『それは馬鹿らしい』『それは異常だ』『それはおかしい』『そいつは不正確だ』『それは良いことではない』などと私たちは反応する傾向がある。彼の言葉が彼自身にどんな意味があるかを正確に理解しようと自分に許すことはほとんどない。私は,その理由は,理解することが危険なことだからだと思う。他人を本当に理解しようとすると,理解することによって私が変化するかもしれない。私たちは誰でも変化を恐れている。したがって私が述べるように,他人を理解することを自分に許し,他人の照合枠(frame of reference)のなかで十分に共感して入り込むのは容易なことではない。またそれは稀なことである。」

参考文献;
K・ホーナイ『自己分析』(誠信書房)
H・カーシェンバウム&V・L・ランド ヘンダーソン編『ロジャーズ選集下』(誠信書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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