2017年06月24日

秀秋


黒田基樹『小早川秀秋』を読む。

小早川秀秋.jpg


わずか百ページに満たない本である。小早川秀秋(と称したことはなく,羽柴姓でありつづけた)という,僅か二十一歳で世を去った男の人生の薄さのように見える。

著者は,「はしがき」で,「小早川秀秋」について語られるとき,

「そこでの語られ方は,ほぼ一様に,ひ弱で,関ヶ原合戦では江戸方(徳川家康方)と大坂方(石田・大谷方)のいずれに味方するか迷い,あげくには合戦当日に大阪方から江戸方へ寝返り,しかもその寝返り方にすら優柔不断さを発揮し,家康から『問鉄砲』されて漸く実行した,というようなものであろう。
 ところが,こうした秀秋に対するイメージは,江戸時代中期以降に成立した軍記物などによって創りだされたものといってよく,それが戦後の歴史小説などで増幅されてきたものであった。」

その秀秋の実像を,明らかにしようというのが本書である。

「秀秋は,秀吉の妻北政所(浅野寧々・高台院,杉原定利の娘・浅野長勝の養女)の実兄木下家定の五男とされる(『藩翰譜』など)。これについては,家定の三男延俊が,秀秋の兄であったことが確かなので,(『兼見卿記』 文禄三年十二月三日条),信用してよいと思われる。
 生まれ年には諸説があり,慶長七年に死去したときの没年齢について,『小早川系図』などに二十六歳,『藩翰譜』などに二十三歳,『落穂集』などに二十二歳,『沼田小早川系図』などに二十一歳,などと見える。それぞれ逆算すると,生まれ年は天正五年(一五七七),同八年,同九年,同十年という具合になる。
 かつては天正五年説が有力であったが,近年は同十年説が有力になっている。これに関しては,天正十年生まれであることを示す明確な史料がそんざいすることから,同年で確定される。」

と,生まれた年ですら,こんな具合である。

「秀秋が史料に初めて登場するのは,天正十三年(一五八五)閏八月のことである。すでに羽柴(豊臣)秀吉の養子になっていたから,苗字は『羽柴』を称していたとみていい。その後,文禄三年(一五九四)十一月に筑前小早川隆景の養子になって,『小早川』の名字を称することになる。ただし,羽柴政権のもとでは,国持大名・公家成大名は『羽柴名字』を称したので,秀秋は小早川家に養子入りし,翌年家督を継ぐものの,実際には名字は羽柴名字のままであった。」

つまり,「小早川秀秋」と呼ばれているけれども,

「正確にいうと,『小早川秀俊』(と四年半ほど名のっていた)や『小早川秀秋』(後に秀詮と変えているが)と称した人物は存在しない」

のである。存在したのは,

羽柴中納言,

である(所領に応じて羽柴丹波中納言,筑前中納言,備前中納言と称した)。

また,たとえば,よく「金吾(金五)」という秀秋の呼び名についても,

「通称は,仮名と官職名によるものとがあった。元服前から元服後を通じて称していたのが『金吾(金五)』である。『金吾』や『金五』の名は,衛門府の唐名であることから,江戸時代から,右衛門尉ないしは右衛門督に任官したことにともなうものと考えられてきた。しかし,わずか三歳の時点で,しかも元服前の任官は考えられないので,これは幼名もしくは仮名とみるべきであろう。元服前の呼称は幼名として名乗ったと考えられ,それを元服後も称していることから,そこでは仮名として称したと考えられる。」

三歳のとき,秀吉の養子となり,秀吉書状で,

「養女豪姫(宇喜多秀家の妻・前田利家の娘)に続いて,『きん吾も事って申し候』とみえる…。このとき,秀秋はわずか四歳であったから,むしろここにみえる『金五』(金吾)こそが,幼名であったとみられる。」

小早川秀秋像.jpg

絹本着色小早川秀秋像(高台寺蔵


天正十六年,わずか七歳で元服。従五位下・侍従に叙任され,公家成となっている。

「公家成とは,武士が同官位に叙任され,公家の身分になることをいう。そして,それにともなって『金吾侍従』と称されている。同十七年十一月に丹波国亀山領(京都市亀山市)を与えられて大名となり,同二十年(文禄元年・一五九二)正月に従三位・権中納言に叙任されると,以後は『羽柴丹波中納言』を称している。羽柴政権では,公家成大名の場合,羽柴苗字・領国名・官職名を合わせた呼称をするのが通例となっていた。」

この任官は,織田秀信,羽柴秀長の養子秀保と同時であったが,

「翌(四月)十五日には,諸大名から秀吉に対して,秀吉への忠誠を誓約した連署起請文が提出されるが,その宛名は『金吾殿』とされていて,秀秋に宛てたものとなっている。このことは秀秋が諸大名の秀吉への忠誠を受けとめる立場にあったこと,すなわち,叔父秀長を含む諸大名とは異なる立場にあったことを示している。」

この秀秋の立場は,実子が生まれた後,後継者の地位からははずれても,秀吉の養子として特別な扱いを受け続ける。

「たとえば,(同十八年)五月十四日付で秀吉が北政所にあてた消息(手紙)では,『わかきみ(鶴松)・大まんどころ殿(秀吉母)・五ひめ(豪姫)・きん五・そもじ』と(『小山文書』『太閤書信』),別の消息では『大まんどころ殿・そもし・わかきみ・おつめ(養女,織田信雄の娘・徳川秀忠の妻)・きん五』と(『篠崎文書』),家族を列挙したなかに必ず入っているのである。」

また小早川への養子となるについても,通説とは異なり,著者は,

「この件は隆景から申し出たものであったろう。というのは,秀秋の養子化が決まると,清華衆であった秀秋を養子に迎えるにふさわしく,隆景自身の家格が清華衆に上昇しているからである。すなわち,文禄四年正月までに参議に昇進し,翌慶長元年(一五九六)二月に秀秋同官の中納言に昇進,そして同年五月には清華衆に加えられている。このことをみると,隆景は本来,秀秋を養子に迎えることができるような家格にはなかったことがわかる。また,独立した領国大名であったとはいえ,毛利家の一門にすぎなかった隆景が,秀秋を養子にするのも不釣り合いなことといえる。」

と書く。その秀秋が,関ヶ原で寝返った経緯については,

「毛利勢の中心人物の一人であった吉川広家が,関ヶ原から二日後の九月十七日に記した書状案に,『筑中(秀秋)の御逆意がすでにはっきりした,そのために大柿衆も山中に移り,大谷吉継の陣が心配なため,(これを)引き取った』と記していることが注目される。
 これによれば,大柿城にいた石田三成らは,松尾山城に在陣する秀秋が,江戸方の立場を明確にしたので,大谷吉継を守るために関ヶ原に陣を移したのだという。」

とする。とすると,合戦最中に翻意したというのは後世の創作ということになる。

「むしろ当時の史料からは,開戦とほぼ同時に,秀秋は江戸方の立場をとって,大阪方を攻撃したことが明らかになっている。」

約束通り,宇喜多秀家の旧領備前・美作の二国四十万石に加増転封されたが,関ヶ原の二年後,秀秋は,病死する。飲酒によって体を病んでいた,と言う。

それにしても,秀吉の甥秀次といい,北政所の甥秀秋といい,巨大な叔父秀吉によって振り回された一生であった。秀次については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/440783746.html

で触れた。

参考文献;
黒田基樹『小早川秀秋』(戎光祥出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 04:30| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください