2017年07月03日

太宰治


太宰治『太宰治全集』を読む。

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何十年ぶりかに,太宰を読み直した。Kindle版で,簡単に手に入るようになったせいだ。かつて,なぜあんなに熱中したのか,と不思議な気持ちで読み通した。正直,

つまらない,

と感じた。

文学としての巧拙は知らない。しかし,いつも同じテーマが通奏低音のように流れる。言い方が悪いが,それは,

言い訳,
あるいは,
弁解,

に見える。というか,それを意識してテーマとして書いている,と見えた。あるいは,

生きている理由,

を捜す,という言い方でもいい。ただ,良さは,

自己正当化,

には堕していない,というところだと思う。少し乱暴な言い方をするなら,通底する弁解は,ときに,

諧謔,

ときに,

被虐,

あるいは,

衒学,

となる。それは自分との距離の取り方に起因する。たぶん,おのれの生き方,あり方については,疑い,狐疑逡巡するが,

筆の世界,

つまり,書かれた小説世界には,揺れ動くおのれとの距離をとりつつ,それを描く世界そのものへの確信は揺るぎはないように見える。

自分

それへの距離の取り方,

それを描く作品世界,

とのバランスで成り立っていた,と見える。それが,

自分自身か,
おのれとの距離の取り方か,
それを描く世界か,

そのいずれかに僅かな齟齬が生まれれば,たちまち崩れる危うさ,でもある,と見える。

ヴィヨンの妻,

斜陽,

走れメロス,
も,
竹靑,

魚服記,
も,
人間失格,
も,
グッド・バイ,
も,

同じテーマだ。同じ事件(といっていいか),経験を,異なる視点から,たぶん,しっくりこないのだろう,いろいろ書き直す。その筆力には驚くが,今日読み直して,僕には,今に堪えうるものは,どれほどだろうか,と疑問に思う。

いま,手許に唯一残っているのは,新書版の太宰全集(筑摩書房)第一巻のみだが,その『晩年』で,その巻頭の「葉」のエピグラフに,ベルレーヌの,

選ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり,

がある。太宰を象徴するフレーズだとずっと思ってきた。この『晩年』に出会ってしまって,僕の小説観が歪んでしまったと常々思ってきた。しかし,いま思うのは,自惚れと自嘲との振れ幅,自己意識の振り子に堪えきれず,煩悶するというのが,正しいのかもしれない。

有名かどうか知らないが,『川端康成へ』と題された文章は,ある意味太宰の煩悶を象徴するように見える。

「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」

という川端康成の,(たぶん芥川賞の)選評に,太宰は,異常に反応し,川端を罵倒する。

「川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。 こんな筈ではなかった。 たしかに、こんな筈ではなかったのだ。 あなたは、作家というものは『間抜け』の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなけれ ばいけない。」

ここで問題になっている,『道化の華』を壇一雄が,

「これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏なら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。」

ということで,事前に川端が目を通していた経緯があるなのか,太宰の私生活をあてこすっていると受けとめたのか,いずれにしても,太宰は,川端の一文に,異常な反応をした。この『道化の華』は,

「三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。『海』という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平に読んでもらっ たが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の『僕』という男の独白なぞは全くなかったのでのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。 そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所 の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった『海』という作品をずたずたに切りきざんで、『僕』という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。」

という。太宰としては技巧を駆使した作品だ,という。僕は,この,何回か素材として使われる,例の心中未遂を素材にした,この作品を,傑作とは思えず,どこか,

後ろ暗さ,

というよりも,言い過ぎかもしれないが,

薄汚さ,

を感じた。川端の感じたものが同じかどうかは知らない。しかし,ここでは,

言い訳,

は,あるいは,

正当化,

の翳を感じた。たぶん,むかしは,熱中した彼の作品に,好意よりは,嫌悪を感じ始めているのは,太宰ではなく,いまの自分を反映している。若いときにおのれの写し鏡のように受け取った太宰は,いま,同じ写し鏡でも,厭うべき何か,のようだ。たぶん,それが,老いる,ということなのだろう。

太宰よりも倍生きたせいか,太宰の身もだえが,滑稽に見える。いま,若い人にとって,太宰はどう読まれるのだろうか。

参考文献;
太宰治『太宰治全集』Kindle版


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posted by Toshi at 04:36| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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