第85回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会「社会構成主義の理論と実践~ナラティヴとオープンダイアローグを通して」(野村直樹先生・田中ひな子先生)に参加してきた。
事前の案内には,「講師からのメッセージ」として,
「デカルトから350年、グレゴリー・ベイトソンによって新しい科学の輪郭が示されました。ベイトソンによる改革は、①自然を生きたものとして捉える、②心と身体を一体に捉える、③観察者を内部から観測する者として捉える、に集約されます。
それまでの直線的思考(合理性)だけでは不十分でした。自然も人と人との関係や成り立ちも円環的・循環的な因果律によって作動し維持されている(生きている)からです。それらはコミュニケーションによってつくられ進化していくものです。
また、それまでの科学では観察者を無関係な第三者として切り離して捉えていましたが、ベイトソンは事象の外に位置づけられていた観察者を事象の内側に戻しました。
ベイトソンによってもたらされた新しいパラダイムが、ファミリーセラピーと交わったところで「ナラティヴ・セラピー」が生まれ、ロシアの文芸理論家ミハエル・バフチンの対話主義と交わったところで「オープンダイアローグ」が生まれました。」
とある。デカルトからベかイトソンへの転換は,ある意味,量子力学への転換と軌を一にしている。そこに,客観的世界を観察する位置に安住できない,という意味でもある。デカルトが,
個を主体とする文法,
であり,
分割可能であり,
測定可能であり,
集約可能であり,
操作可能な対象として客観的に眺めることができ,直線的な因果関係を描ける世界である。しかし,量子の世界は,たとえば,
「二つの電子を選ぶ。電子にもまた内部構造がなく、粒子としてふるまうときは点のごとくふるまうのだが、スピンしている。電子は2回転して初めて元の状態に戻るような量子であるため、1回転では『半分』まで戻るという意味で『スピン』とよばれている。…スピンの電子の『自転軸』には『上向き』と『下向き』の 二つの方向がある(前者 を『スピン・アップ』、後者を『スピン・ダウン』とよぶことにする)。実際に、相関をもって いて100兆㎞離れた電子Aと電子Bとからなる系に測定器をかけて、それぞれの電子の状態を測定してみるとどうなるだろうか。たとえば、測定器を電子Aに向けた結果、電子Aのスピンがアップであると測定されたとする。電子Aがスピン・アップと観測されたその瞬間(そう、まさにその瞬間、ゼロ秒間で!)、100 兆㎞離れた場所にある電子Bのスピンは自動的に(観測することなしに!)スピン・ダウ に決定する。相関をもつ( つまり、もつれた)二つの電子の合計スピンは、必ずゼロにならなければならないからだ。」(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)
のように,アインシュタインの特殊相対性理論に反して,電子Aの測定結果が100 兆㎞離れた電子Bに,光の速度=秒速30万㎞3・3 億秒( 約10年)ではなく,瞬時に届く。ここには従来の因果論は通用しない。
それに対して,ベイトソンは,
関係性の文法,
であるという。そのベイトソンの特徴は,
双方向性とコンテキストがキーワード,
という。例示として出されていたのは,
A(なじる)→B(引きこもる)→A(なじる)→B(引きこもる)…
の連鎖である。ここには,部分を切れば,
A(なじる)→B(引きこもる)
Bの原因がAに見えるが,切り方を変えると,
B(引きこもる)→A(なじる)
と,因果が逆になる。これを円環的因果という。この双方向性は,よく分かる。コミュニケーションを考えた時,たとえば,
(自分)の発話の意味は受け手の反応によって明らかになる,
という。このとき,相手の言ったことをちゃんと聞いていないとか,その反応は誤解とかというのは,自分が話したことをそのまま正確に受け取ることを前提にした言い方になる。そういう会話は,一方通行でしかない。双方向という以上,話し手のいった意味を受けて受け手が何かを理解して返す,そのとき,話し手の言った中味のどこかに焦点が当たるのかもしれない,あるいは微妙に含意を変えるのかもしれない,あるいは,あくいにとるかもしれない等々。まったく違えば,修正のやり取りが入るが,そうでなければ,その微妙な違いによって後続の会話はシフトしていく。この時,自分の発話した意味にこだわれば,会話は成り立たない。
そして,コンテクストとは,この円環的につながったものそのものを言う。何気ない会話でもそうだが,相手の返す瞬間から,両者の言語空間は,ひとつの世界となっていく感じがする。
いまの生物学の世界には,ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した
環世界,
という考え方があるそうだ。
「普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。」
だから,
生物はそれぞれに適した環境で,「環世界」を形づくり生活圏とする,
環境一般があるのではなく,人には人の環世界があり,犬には犬の環世界がある。人も,自分の独自の環世界をもつ。この環世界に穴をあけるのがダイアローグ,だという。思い当たることがある。たしか,ウィトゲンシュタインだと思うが,
ひとは持っている言葉によって見える世界が違う,
と言った。言葉を持つことで,その言葉の持つ世界を手に入れる。かつて,日本には,色はなかった。
明るい,
か
暗い,
しかなかった。「あか」は明るい,であり,「くろ」は,暗いである。「赤」「黒」という言葉を手にして,色を見た。そういう意味だと思っていた。
しかし,同時に,個別に見ると,「赤」で見ている色は,朱なのか,オレンジなのか,柿色なのか,区別はつかない。大袈裟に言えば,それぞれの環世界の中で,自分の「赤」を見ているからだ。その意味では,コミュニケーションを通して,上記のように,見ている世界をすり合わせることで,世界が共有されていく。
これをナラティヴと呼ぶなら,
セラピストもまた,この会話の当事者として,語り手の相手になった,
ということになる。デカルトの文法の世界が,
三人称,
であるなら,ここでは,互いが,
一人称,
であり,相互に,
ダンス,
のように,シンクロする協働世界,ということになる。ふと,フランクルが,
人はだれでも語りたい自分の物語を持っている,
といったのを思い出す。その視点では,語り手も聞き手も対等であり,お互いに,
いま,ここ,
の会話世界を築くことになる。思えば,ナラティヴ・セラピーの方法のひとつ「問題の外在化」とは,自身の問題を,
デカルト文法処理,
をすることで,三人称で語る客体として,観察可能にするということになろうか。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている-「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』(ブルーバックス)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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