2017年07月07日

通底


倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』を読む。

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本書は,四世紀末から五世紀にかけての,高句麗との戦いでの大敗らか始まり,さらに七世紀の唐との白村江での大敗を経て,古代の日本の戦争史を繙く。実は,明治以前は,この後,十六世紀の秀吉の朝鮮侵攻を加えて,三回しか日本は対外戦争を経験していない。いずれも朝鮮半島でであったが,しかし明治政府が,維新後早々から朝鮮半島侵略に踏み切ったのには,明治政権の特質ももちろんある(僕自身はテロリスト集団が政権奪取してしまったと認識している)が,それ以上に根深いものがある,と著者は説く。正直,これは衝撃であった。

「(朝鮮侵略は)もちろん,直接的には藩閥政府の帝国主義への志向と,帝国陸海軍の内包した矛盾に解明の道があるのであろう。しかし,さらにその淵源は,古代倭国や日本にあり,そして長い歴史を通じて醸成され,蓄積された小帝国志向,それに対朝鮮観と敵国視が,幾度にもわたって記憶の呼び戻しと再生産をもたらし,近代日本人のDNAに植えつけられてしまっていたことにあるのではないかと考える。」

そのキーワードを,

東夷の小帝国,゛

と,著者は見る。「中国に倣った中華思想を基軸に据え」た大宝律令が完成した大宝元年(701)の元日,

「文武天皇は大極殿に出御し,朝賀を受けた。その眼前には前年新羅から遣わされた『蕃夷の使者』も左右に列立した。」

という。この中華思想「東夷の小帝国」は,

「日本(および倭国)は中華帝国よりは下位だが,朝鮮諸国よりは上位に位置し,蕃国を支配する小帝国」

を主張するというものだ。これが,

荒唐無稽で,笑止千万な主張,

とは言い切れない,「その根拠とされた歴史的事実も,それなりに存在した」として,次のように,列挙し,

「第一に,四世紀末から五世紀初頭にかけて,百済(ひゃくさい)・伽耶(かや)・新羅(しんら)を『臣民』としたという認識である。実際には,百済の要請を受けて半島に出兵し,百済(や伽耶)と一時的に軍事協力関係を結び,新羅に攻め入っただけなのであろうが,その過程において,百済や伽耶・新羅を『臣民』にしたという主張は,倭国の支配者層のあいだに根強く残った。
この出兵(と白村江の戦い)が神功皇后の『三韓征伐』説話のモチーフとなり,それがはるか後世までくりかえし歴史の表面に現われ出ることになることを思うと,倭国最初の海外出兵が日本史に与えた影響は,我々の想像以上に大きいものであったと考えるべきであろう。」

「第二に,五世紀に宋から朝鮮半島南部六国(伽耶諸国と新羅)の軍事指揮権(『六国諸軍事』)を承認されれたという事実である。(中略)もちろん,倭国は半島南部において実質上の支配権は有していなかった。しかし中国皇帝から認められたことは,この国の支配者の記憶に刻印され,後世にまで大きな影響を及ぼしたはずである。」

「第三に,六世紀までは『任那』を支配していたという主張である。『任那』というのは金官国のことで,実際には倭国が支配した事実はない。(中略)『日本書記』が氏族伝承や百済系外交史料といった原史料を,そのまま本分としてしまった結果,あたかも倭国が朝鮮半島南部に統治権を有していたような記述となってしまったのである。」

「第四に,『任那』滅亡後,六世紀から七世紀にかけて,倭国は新羅や百済に『任那の調』の貢進を求めたが,新羅や百済は外交的・軍事的に苦境に立つと,倭国に何度も『任那の調』を送ってきた。実際には新羅や百済の特産物を贈っただけのことでことは言うまでもないし,新羅や百済の側にはこれが『調』であるとの認識はなく,あくまで外交上の口頭によるやりとりに過ぎなかったと思われる。
 しかし,倭国側にとっては,この事実が,七世紀までは新羅や百済,それに『任那』が倭国に『朝貢』してきたという主張につながったのである。」

「第五に,遣隋使と遣唐使の問題である。600年に第一次の使節が派遣された遣隋使は,これまでの倭国の志節とは異なり,また他の周辺諸国(『蕃国』)とは異なり,中国の皇帝に冊封を求めなかった。
 倭国の大王は,隋から冊封された朝鮮諸国の国王より優越した地位と認識されることを欲したのである。『随書』東夷伝倭国条に記されている,『新羅と百済は,皆,倭を大国であって珍物が多いとして,幷にこれを敬仰し,つねに使者を通わせて往来している』という記事は,ある程度,倭国の主張が隋に認められたことを示すものであろう。
 これも倭国の主張を助長させる結果につながったことは,もちろんである。」

「第六に,七世紀後半に百済遺臣の要請を受けて,白村江で唐と戦ったという事実である。その際に,倭国に滞在していた百済王族の余豊璋を新しい百済王として,それに倭国人の妻を与え,倭国の冠位を授けていることは,重要である。この戦いに勝利し,倭国人妻が生んだ王子が即位したならば,百済は倭国の属国として位置づけられるであろう。」

「第七に,八世紀初頭に成立した律令制において,新羅を『蕃国』として設定した地理認識である。また,東北地方の『蝦夷』,九州南部の『隼人』,南島という『異民族』を設定し,位階と官職を授けて河内に住まわせた百済王氏(くだらのこにしき)と合わせて,これを支配していいるという主張によって,『小帝国』世界観念を構築していった。」

こうした歴史における「事実と主張」によって,

「日本(および倭国)の支配者層はは,自国が朝鮮諸国よりも優越した存在の『大国』であると認識した」

というのである。それと同時に,

「朝鮮半島諸国に対する敵国観も,日本人の意識の奥底に深く刻まれた。もともと,交戦国であった高句麗や新羅に対する敵国視は古い時代から存在していたのであるが,(中略)その後新羅に替わって半島を統一した高麗は高句麗の後継者と自称したが,日本ではこれを新羅の後継者と見なした。そして新羅に対する敵国視もまた,高麗に対しても継承させたのである。」

この対朝鮮観の根深さは,ちょっと衝撃的である。われわれの夜郎自大ぶりには,われわれの1500年に及ぶ年季が入っているのである。一方の,朝鮮は,

「『自己(朝鮮)は中国よりは下位にあるが日本(倭)よりは上位である』と思いつづけてきた」

のに,それが,

『自己(日本)は中国よりは下位にあるが朝鮮よりは上位にある』と思いつづけてきた日本の植民地支配を受ける。これ程の屈辱感は,その国の人でないと,我々日本人にはとうてい理解しがたいことだったであろう。」

いま,近隣諸国で,日本を指す,

倭奴,
小日本,
日本鬼子,

という言葉が使われ続けていると,著者は締めくくる。相手は,おのれの写し鏡である。日本の他国観は,そのまま他国の日本観に反映する。

参考文献;
倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)


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posted by Toshi at 05:23| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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