2017年08月04日

城攻め


渡邊大門編『地理と地形で読み解く 戦国の城攻め』を読む。

地理と地形で読み解く 戦国の城攻め.jpg


同じ城攻めをテーマにした伊東潤『城を攻める 城を守る』については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397675168.html

で触れたことがある。今回は,戦国期(織豊期まで)の,籠城した城の攻防に焦点を当てて,25例載せている。そのために,それぞれの攻防両者の事情,経緯,背景にはあまり紙数を避けず,奥行がないのは,やむを得まい。

「はじめに」で,

「城攻めの成否を握るのが地理と地形である。いうまでもないが,城は場所を十分に考えて築城されている。(中略)必要である。イントであった。周囲に構築された,砦などとのネットワークも攻守に必要である。それゆえ,難攻不落の名城は多い。
 いわば,戦国時代の城郭とは,当時の人々の英知の結晶であるゆえ,それを攻め落とすことは並大抵ではなかった。本書は,単に城攻めの経過をたどるだけではなく,…城郭の築かれた場所(周辺地域も含めて)の地理的な条件や地形に留意して,検討を行ったものである。」

と述べ,城の特徴に合わせた攻め手の工夫が見物である。本書は,中央に偏り,

織田方武将の城攻めが,

高天神城,
観音寺城,
魚津城,
八上城,
有岡城,
信貴山城,
小谷城,

が,次いで,秀吉の城攻めが,

鳥取城,
備中高松城,
三木城,
紀伊太田城,
長水城,
忍城,

と多い。あとは,関ヶ原と関連した,

長谷堂城,
上田城,
大津城,
安濃津城,
岐阜城,

が続く。ほぼ日本の中央を制した織田・豊臣方の城攻めが多いのは,やむを得ないかもしれないが,それにしては,小田原城攻めがないし,数少ない,籠城からの起死回生の勝ちをえた佐嘉城攻めが抜けている。完全孤立した竜造寺隆信五千を包囲した大友宗麟六万が,竜造寺側の夜討ちという奇策に大敗するに至る戦いは,籠城戦には珍しい逆転勝ちなのだが。

城攻めは,守る側,つまり籠城から見ると,後詰の援軍がなければ,ほとんど勝ち目はない。大体,籠城側が寡兵,攻め手が大軍なのだから追いつめられての籠城と決まっている。松平容保の会津城,豊臣秀頼の大阪城,荒木村重の有岡城,浅井長政の小谷城,石田三成に水攻めされた忍城,毛利に追い詰められた尼子義久の月山富田城,信長を再度裏切り包囲された松永久秀の信貴山城,さらに島原一揆の原城も加えてもよい。そうならざるを得ない仕儀にて,孤城の籠城になる。追い詰められてか,やむを得ずかはともかく,籠城の瞬間,自らの手足を縛るに等しい。孤軍では勝負は決している。その前に,切所はある。寡兵での籠城を嫌った信長が,倍する今川義元の本陣を突いたのは,その意味で,まだ勝負を捨てていないという意味になる。そこに,将の器量の差が出る。

城攻めには,追い詰められた相手を更に追いつめるために,

城内への(内応を働きかける)調略,
水の手を断つ,
糧道を断つ,
坑道を掘る,

等々が常套手段だが,包囲した城の周囲に,

付城,

を構築して,包囲を固めていく。別所長治の三木城,荒木村重の有岡城なども,そうやって攻囲し,糧道を断った。糧道を断つために,糧食を高値で買い取って兵粮のたくわえを得にくくすることで,攻囲の効果を挙げ,結果として,「餓え殺し」といわれる鳥取城攻めは,三木城とともに,秀吉の得意の戦法である。秀吉の戦法で有名なのは,備中高松城,紀伊太田城,忍城の水攻めだろう。地形を利用し,川を堰きとめて城を水没させる。

しかし,多くの城は,境目(敵味方の境界)で,両軍のせめぎあいの中で,攻囲される。たとえば,高天神城が,徳川家康に包囲されたとき,勝頼は,後詰をせず,結果として,勝頼の威信は地に落ちた。逆に,柴田勝家に包囲された魚津城を,後背から織田勢に迫られて,上杉景勝は,後詰したくてもできず,結果として,魚津城兵二千は全滅するに至る。

他の戦線との兼ね合いで,籠城し,結果として開城した,京極高次は,籠城の間,西軍の立花宗茂らの一万五千を釘づけにすることで,主戦場の関ヶ原合戦から引き離し,結局開城した時点では,関ヶ原は開戦しており,これが東軍勝利に貢献した,という籠城戦もある。城の攻防という局地戦のみを観ていると,大局としての戦局を見失う,という例かもしれない。この一万五千が,関ヶ原に到着していれば,関ヶ原の勝敗の行方は,また変わったかもしれない。

徳川秀忠を足止めし,翻弄した真田昌幸の上田城籠城戦も,関ヶ原の戦局を直接左右した訳ではないが,徳川本隊である秀忠軍が合戦に間に合わないという大恥をかかせたのも,大津城とは立場が逆ながら,籠城が,他の戦線と連携していればこそ効果があるいるということを示す例と言えるかもしれない。

魚津城も,そうかもしれないが,籠城自体に,城兵に意味があるとすると,名を残す,という,一点かもしれない。景勝の救援は当てにできず,糧道も尽き,守る上杉方三千八百,攻める柴田勝家二万数千,劣勢の中,

「一人として寝返りなどの脱落者がいなかった」

という。

「籠城戦に付き物ともいえる調略による裏切りがなかったばかりか,『滅亡』を覚悟で戦い続けた戦いというのは,極めて珍しいケース」

という。最終的には,三月から六月三日まで持ちこたえ,残った二千余人が全員討たれた。しかし皮肉なことに,この前日織田信長は,本能寺で横死しているのである。

真田丸.png

(大坂冬の陣布陣図。投稿者Jmho 2006年10月26日 (木) 15:25 (UTC)が作成)


たぶん,こうした攻城戦のハイライトは,二十万対十万の大阪冬の陣の真田丸だろう。孤立した難攻不落の大阪城とはいえ,籠城の先に光明があるとは言えない。まさに局地戦中の局地戦である。その中で,ただおのれの才覚ひとつで,時間を延ばすだけの闘いに過ぎない。しかし,その局地だからこその極致,前田勢,井伊勢,松平勢を翻弄した真田丸での闘いは目立つ。しかし,それはあくまで,局地戦に過ぎない。

結局攻城も,他の戦線と連携していてこそ,意味がある。結果は裏目に出たが,武田勝頼は,長篠城を攻囲しつつ,織田・徳川連合軍を誘い出した。これは,信玄が二俣城を落とさず,家康を三方ヶ原におびき出したのと同様の,武田流の戦法だともいわれる。長篠城を囮にして信長と家康をおびき出し,「無二の一戦」に及ぼうとした,という。結果は,設楽ヶ原で惨敗することになるが,これは意味のある城攻めだ。しかし,数年後,今度は逆に,武田軍が籠城する高天神城が徳川軍に包囲されたとき,後詰をせず,落城させた。この落城は,勝頼の威信を失墜させる効果があった。

参考文献;
渡邊大門編『地理と地形で読み解く 戦国の城攻め』(光文社知恵の森文庫)
伊東潤『城を攻める 城を守る』(講談社現代新書)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%B8%B8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


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posted by Toshi at 05:08| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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