2017年08月07日

ナラティヴ・セラピー


シェリル・ワイト編『ナラティヴ・セラピーの実践』を読む。

ナラティヴ・セラピーの実践.jpg


本書のねらいについて,「序文」で,

「私たちは,トレーニングやワークショップ,それにカンファレンスに参加した人たちからいつも必ず,ナラティヴな考え方やナラティヴな仕事の仕方についての入門書として何がいいのだろうかと尋ねられてきた。これでようやく,その質問に答えることができるわけだ。つまり,この本を読めばいいのだから!」

とあり,本書は,マイケル・ホワイトの主宰するダルウィッチ・センターの季刊誌『Dulwich Centre Newsletter』に発表された,

「実践に基づいた論文」

が集められている。そして,

「ナラティヴ・セラピーをもっと理解したいと願う人々や仕事の仕方を探求し実験していくさまざまな方法について知りたいと願う人々にとって,この本は読みやすいながらも完全なイントロダクションとなるだろう。」

とある。しかし,正直,ナラティヴ・セラピー,あるいは,ナラティヴ・アプローチについてある程度承知したうえで読まないと,ここでの実践の位置づけがきちんとできないのではないか,というのが,読んだ感想である。実践報告ということは,現実のナラティヴ・アプローチによって,何をしているか,が中心なので,なぜ,ナラティヴは,こういう活動をするのかは,きちんと伝わりにくい,と感じた。

本書は,活動を,

個人との仕事,
グループとの仕事,
コミュニティとの仕事,

とにわけ,その他共同研究,マイケル・ホワイトの覚書などが付加されて,構成されている。その中身は,

幻聴や幻から人生を取り戻していく様を描く「パワー・トゥ・アワ・ジャーニー」の取り組み,
性的虐待やアノレキシア・ネルボーザ(摂食障害)の影響,
アフリカのマラウィ村での仕事,
自己虐待を繰り返している若者との対話,
糖尿病や悲しみについてのアボリジニとの仕事,
亡くなった人との再会の誘い,

等々。ここにあるのは,

「カウンセラーの役割というものを,…(相談者自身と)その人生についての問題のしみ込んだドミナント・ストーリーから離してやり,オルタナティヴ・ストーリーを共著できるよう援助する存在だと考えている」

という,ホワイトの言葉に象徴されるナラティヴの思想を実践しているということだ。

だから,ときに,

「セラピー文化がドミナントな文化をどの程度再生産しているかに気づくことで,これと完全には共犯しない治療的態度を求める私たちは援助される。」

として,たとえば,

a 特権化された知識とドミナントな文化に関わる力の実践が,諸個人の人生と人間関係にどのような現実的影響をもつのか探求するよう諸個人を援助すること
b そのようなドミナントな知識と力の実践の煽動に対する抵抗を賞讃し採用するよう諸個人を励ますこと
c オルタナティヴな知識とこの抵抗に関連する意味の枠組みを特権化すること
d セラピーの実践において現実に虐待したり,虐待の可能性のある力を露呈するようなアカウンタビリティの構造を確立すること
e サイコセラピー文化における知識のヒエラルキーを転覆させること
f 社会におけるその人の位置づけ(ジェンダー,人種,社会階級,エスニシティー,性的嗜好等々)を認め,その位置づけが暗示するさまざまなことがらを認めること
g その人自身の人生を形作る上での治療的相互作用の貢献を認めること
h セラピーに関する経験について,そして,私たちの動機やふるまいについて家族がどのように解釈するのかという点について,たえず家族をインタヴューすること
i 治療的文脈を完全に平等な文脈にすることは不可能であるという事実を認め,尊重すること。ただし,より平等な文脈となるよう努力すること

と,ホワイトが,したためた「力とセラピーについての覚え書き」に,その姿勢は象徴的に示されている。だから,

「引っかき傷が自己虐待になるとき」

という章で,自傷行為をする十代の若者たちとの対話において,こう書いている。

「私たちは,この過程が共同研究よりもむしろセラピーめいたものにならないよう全体的に気を配る必要があることを学んだ。前もって用意した質問を後から見直してみたら実際にいくつかの《セラピー》的な質問があったことに気づいたからである。しかしグループをしているあいだに,私たちはそれらの質問を自動的に《共同研究》的なものに変えていた。たとえば,《自己虐待をしている時,あなたたちに何がいるのですか?≫という質問を用意していたが,実際には《私たちが誰かのセラピーを担当しているとしましょう。その人たちが自己虐待を始めたとしたら,一体彼らに何がおこっている可能性があるのかしら?》と尋ねていたのである。それでもついセラピー・モードに戻ってしまったことが,確かに一度あった。私たちと全く同じ意見をスーザンがはっきり(自傷行為が友達ではなく敵)と発言しているのがわかったので,私たちは興奮して我を忘れ,つい彼女にもっと意見を言わせようとして《あなたはいつから(自己虐待が)友達ではなく,敵だと思うようになったのか?》というような質問をしてしまったのである。この個人的な質問によって即座に彼女の気持ちが萎えてしまったのは明らかで,私たちが間違いを犯したのは,はっきりしていた。」

こうした一連の姿勢と方向の中で,

「問題の外在化は,問題が人々の中にあるとか人間関係の中にあると考えることを拒否することが含まれている。人が問題ではなく,問題が問題なのである。『外在化する会話』とは,人々が自分たちの人生に影響している問題から自分たち自身を分離して考えることができる空間を創造する会話である。ある問題が,その人のアイデンティティないし,ある重要な人間関係のアイデンティティから分離されて見られるようになると,その人は,新しい行為に出る立場くる。彼/彼女は,問題に抗議,ないし抵抗する,そして/あるいは,問題との関係に何らかの方法でもう一度折り合いをつけ直す機会を得る。」

というホワイトの言葉は生きてくる。

参考文献;
シェリル・ワイト編『ナラティヴ・セラピーの実践』(金剛出版)


ホームページ;
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今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:04| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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