2017年08月12日

リフレクティング


トム・アンデルセン『リフレクティング・プロセス―会話における会話と会話』を読む。

リフレクティング・プロセス.jpg


アンデルセンのリフレクティング・チームの特徴は,監訳者(鈴木浩二)が言うように,

「鏡の裏側にいるリフレクティング・チームメンバーが面接の途中,それぞれ熟考した面接場面に対する考えを面接者と家族のいるところで披露し,面接者と家族の思考の転換を促し,新たな物語を構成し,自らの解決方法を共働して産み出すところ」

にあるが,正確には,面接者と家族が,今度は逆に,リフレクティング・チームメンバーが話す場面を,鏡の後ろで聞く側になる。それを交替しつつ,話が深まっていく。

アンデルセンは,それを,

「明かりと音声の切り換えは,我々と家族を驚くほど自由にした。われわれはもはや責任をもつ側にあるだけではなく,2つの側面の片側に(すぎなく)なった。」

という言い方をしている。この考え方について,

「我々はこの言葉を英語ではなくフランス語の意味で考えた。それは我々の理解ではreplicationに近いものであった。フランス語のréflectionはノルウェー語の“refleksjon”と同じ意味をもつ。すなわち聞いたことを理解し,反応はする前に考えることを意味する。明かりと音声の切り換えもまた思考をより自由にしてくれたので,我々は我々が従っているさまざまな概念やルールがどのように我々に影響しているかを問い直すことになった。」

と述べている。それは,

「我々はリフレクティング・チームの代わりにリフレクティング・ポジションという用語を好んで用いている。」

ということにも表れている。家族と面接者,リフレクティング・チームメンバーとか,交互に聞く側に回り,その都度聞きながら考えたことを披歴し合うのには,ある意味で,自分の問題を,

メタ・ポジション,

で聞くという効果があるような気がするが,アンデルセンは,たとえば,

「参加者たちが一つあるいはそれ以上の問題について積極的に発言する立場と,同じ問題に関する他者の発言に耳を傾ける立場を相互に交換する機会を面接の中に作るという…ように,立場を変えることによって,外的(outer)対話と内的(inner)対話の間を行きつ戻りつすることができるようになる。これら二つの異なった種類の対話は,私たちが物事の新しい記述と理解の仕方を求めている時に,同じ事柄について二つの異なる展望を与えてくれ,さらに異なる二つの出発点を備えてくれる。(中略)ある場合にはチームを使い,ある場合には同僚1人だけの協力で,またある場合にはクライエントたち,すなわち家族メンバーだけしかいないところでも同じやり方をすることができるわけである。この最後の場合は,治療者が家族の1人と話している間に,それに聴き入っている他の家族メンバーはリフレクターとなり,のちには一つの“リフレクティング・チーム”となることもあろう。」

と,その効果を説明する。それは,治療者とクライエントとの間には,

「三つの並行する会話―2つの内的対話(inner talk)と1つの外的対話(outer talk)―が進行していると考える」

からである。同時に,聞く側の時,鏡の外から,見てもいる。

「聴いている人は話されたことすべてに耳を傾けているだけでなく,それがどのように発語されるかを見てもいるわけである。」

からでもある。その意味でも,

メタ・ポジション,

である。いわば,

メタ化,

の具現化,見える化である。

このリフレクティングに意味があるのは,

「私たちが対話を変化のための“方法”として用いているこの世界は,生きている人々と彼らの意味づけから成り立っている世界である。この世界には,彼らが自分とその周りの世界とをどのように理解できるかということと,その世界にどのように関与しうるかという意味づけとが含まれている。人々と,とりわけその意味づけは常に変化しており,その起こりは急速である。意味づけは多様であり,文脈の転換に伴って変更される」

ものだからである。自分の文脈に縛りづけた意味は,メタ化した視点から聞くことで,リフレーミングされる。なぜなら,

「人はそれぞれ,自分が『属している』状況を知覚している(我々はそれを構造化された知覚と呼んでいる)。この知覚はその人の『現実』である。同じ状況にある別の人もまた『現実』を知覚しているが,その『現実』はその人特有の『現実』である。『現実』は知覚する人の『現実』としてのみ存在するのである。同じ『外的』状況は多数の『現実』となる可能性がある。他よりよいといえる『現実』はない。それらは全て等しく『実在』するものである」

し,

「多角的理解は,ひとつの同じ現象,例えばある問題が幾通りにも記述され,理解されることがあることを意味している。人はいずれもある状況に関する自分なりの解釈を創り出すという構成主義的な考えは,行き詰まったシステムに遭遇したときに非常に役に立つものである。…どの解釈も正しいわけでも間違っているわけでもない。我々の課題は,さまざまな人がどのように自分の記述や説明を作り出しているかを理解するために,できる限り多く対話するよう心がけることである。それから,我々は彼らがいまだかつてみたことのない別の記述があるかどうか,まだ考えたこともない別の説明があるかどうかを論じる対話へと導く」

からである。この背景には,グリーシャンが,ヴィトゲンシュタインの,

「我々の言語の限界が我々の世界の限界を設定する」

に基づいて,

「我々の有するあらゆる理解,この世に関する我々のあらゆる記述,我々が社会組織を観察するその方法,問題を理解するための手段,我々が治療を行う際のモデルが我々の言語の使用法と語彙と物語の表現以上の何ものでもない,ということができるのでしょうか?我々の行動が意味を成就するのは,我々の意味体系のなせるわざなのでしょうか?もっと恐ろしいのは,我々が人生において理にかなった行動を自らを他者と協和させ,組織づける複雑な一連の操作であるところの我々人間の営為が,実は我々が相互に形成した叙述が行動へと変形した以上の何ものでもない,という意味が含まれていることです。」

という考え方がある。ぶっちゃけ,

人は持っている言葉によって見える世界が変わる,

とも言う。ならば,同じことを,言い換えてもいいと分かった瞬間,

意味も,
見える世界も,

変るかもしれない。それが,内的対話と外的対話の交替のもたらすものだ。このバックボーンは,ベイトソンの,

差異を作り出す差異(the difference that makes difference),

である。そこには,

空間的差異(区別),
時間的差異(変化),
いつもと異なる(例外),

の3つがある。文脈の中の,地と図の違い,時間経過が生む違い,いつもから浮きだす違い(例外),それは,文脈に埋もれ,視界が閉ざされている時には,別の見え方ができない。メタ・ポジションに立つ時,視界が変わり,違いが見えてくる。

なお,グリーシャンについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/452599306.html?1502395255

で触れた。

参考文献;
トム・アンデルセン『リフレクティング・プロセス―会話における会話と会話』(金剛出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:13| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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