2017年08月13日

物語


マイケル・ホワイト&デビット・エプストン『物語としての家族』を読む。

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否応なく,われわれは,自分人生の舞台に立っている。問題は,自分の物語をどう演ずるか,である。

「はしがき」で,カール・トムは,ホワイトとエプストンの特徴を,

第一に,問題の外在化(externalizing the problem),
第二に,書き言葉を治療目的に多様な方法で使うこと,

と挙げている。「問題の外在化」とは,

「家族のメンバーの人生や人間関係に関する『問題のしみ込んだproblem‐saturated』描写から彼らを引き離すことを援助するための仕掛け」

であり,それは,

「私たちの個人的アイデンティティーは,私たちが自分たち自身について『知っているknow』ことや,私たちが自分たち自身を人間としてどのように描写するかによって構成されます。しかし,私たちが自分たち自身について知っていることは,その大部分が,私たちが組み込まれている文化的実践(描写することや,ラベルを付けること,分類すること,評価すること,隔離すること,それに排除することなど)によって定義されているのです。言葉を使う人間として,事実,私たちは,前提的言語実践と暗黙のうちの社会的文化的共働パターンの目に見えない社会的『コントロール』に服従しているのです。」(カール・トム)

という文脈に埋め込まれている。だから,

「人々が問題から離れることを学ぶと,彼らは,人々や人々の身体を『客体化objectification』あるいは『物化thingrification』する,文化にその起源をもつ他人の実践に挑戦するかもしれない。これらの実践の文脈には,人々は,客体として構成されており,人々は,自分自身や身体,そして他人に対しても,客体として適応するよう励まされている。これは,人々の固定化であり,公式化である。西洋社会においては,この客体化の実践が浸透している。
 問題の外在化の実践は,人々や人々の身体,そしてお互いの『脱客体化』に彼らを従事させる対抗実践と見なすことができる。これらの対抗実践は,常に人々に大きく訴えかける。人々は,これを情熱的に受け入れ,自分たちが救われる。」

まさに,訳者(小森康永)の言われる通り,

「外在化とは,ひとつの技法に留まらない。ひとつの認識論といわざるをえない。」

のである。文化的・社会的な文脈に埋め込まれ,おのれのストーリー(ドミナント・ストーリー)に苦しんできた者は,それを突き離すことで,自分自身の地に埋もれていた図(ユニークな結果)を拾い上げていく。

ベイトソンについての,

「ゴルジブスキーの格言である『地図は領土ではない』を参照にして,彼(ベイトソン)は,出来事に対する私たちの理解や私たちの出来事に対する意味は,出来事を受け取る文脈,すなわち,私たちの世界の地図を構成する前提や予測のネットワークによって決定され拘束されているのである,と提案した。彼は,地図のパターンにたとえて,全ての出来事の解釈は,どれくらいその解釈が出来事の知られているパターンに適合するかによって決まると主張し,それを『部分が全体のコードになるpart for whole ckding』と呼んだ(ベイトソン,1972)。彼は,出来事の解釈は,それを受け取る文脈によって決められると述べただけではなく,パターン化されえない出来事は,生き残りのために選択されないと主張した。つまり,そのような出来事は,私たちにとって事実としては存在しないのである。」

という考え方の紹介は,そのまま,問題の外在化→ユニークな結果→オルタナティブストーリー,へとつながる大きな思想のバックボーになっていることがわかる。なぜなら,

「人々が治療を求めてやってくるほどの問題を経験するのは,彼らが自分たちの経験を『ストーリング』している物語と/または他者によって『ストーリーされて』いる彼らの物語が,充分に彼らの生きられた経験を表していないときであり,そのような状況では,これらのドミナント(優勢な)・ストーリーと矛盾する彼らの生きられた経験の重要な側面が存在するであろう,というものである。」

「人々が治療を求めるような問題を抱えるのは,(a)彼らが自分の経験をストーリングしている物語/また他人によってストーリーされた彼らの経験についての物語が充分に彼らの生きられた経験を表しておらず,(b)そのような状況では,その優勢な物語と矛盾する,人々の生きられた経験の重要で生き生きとした側面が生まれてくるだろう」

ということで,

「人々が治療を求めてやってきたときの容認しうる結果とは,オルタナティブ(代わりの)ストーリーの同定と誕生ということになる」

のである。それには,

「パターン化されえない出来事は,生き残りのために選択されないと主張した。つまり,そのような出来事は,私たちにとって事実としては存在しない」

とされた経験を拾い集めなくてはならない。この,

「ドミナント・ストーリーの外側に汲み残された生きられた経験のこれらの側面のことを『ユニークな結果unique outcome』と呼ぶ」

そして,

「ユニークな結果が見つかれば,これらに関連した新しい意味の上演に従事するよう励ますことができる。ユニークな結果は人生におけるオルタナティブ・ストーリーとなるまで引き続きプロットされる必要がある。私は,このオルタナティブ・ストーリーを『ユニークな説明unique account』と呼び,ユニークな結果が『意味をなすmake sense』ようなオルタナティブ・ストーリーを位置づけ,生み出し,復活させるよう人々を励ます…。」

実は,本書の大半は,特徴の第二の,

書き言葉を治療目的に多様な方法で使うこと,

の実践例で占められている。

招待状,
予言の手紙,
対抗紹介状,
特別な機会のための手紙,
独立宣言,

等々,これらはある意味で,

オルタナティブ・ストーリー,

という新たな舞台の上で,自分の人生を意味づけ直す(という仮説)を強化するための手段と見なすことができる。オルタナティブ・ストーリーを生み出す以上に,それを引き続き生きていく方が,遥かに,難しいからだ。ここに,本書の大きな仕掛けがある。

それにしても,フロイトもそうだが,ロジャーズも含め,セラピー理論が,いかに認識の革新をはかろうとする結果の中から生まれてきている,ということを,つくづく思い知らされる。翻って,わが国のセラピーは,技法の真似は出来ても,こうした認識論の革命にまでいたっているのかどうか,ふと疑問を感ずる。いつまでたっても,所詮キャッチアップとうわべの模倣だけなのではないか。

参考文献;
マイケル・ホワイト&デビット・エプストン『物語としての家族』(金剛出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:13| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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