2017年08月20日

半島から見る


高田貫太『海の向こうから見た倭国』を読む。

海の向こうから見た倭国.jpg


本書は,

「おおむね三世紀後半~六世紀前半の日朝関係を描くことを目的とする」

が,もちろん日朝関係と言っても,

日本列島と朝鮮半島に生活する人々の交流の歴史,

である。舞台は,

「むろん日本列島と朝鮮半島だ。けれども,この両区域の間にくっきりとした境界をひいてしまっては,いきいきとした描写は出来ない。それよりも半島と列島の間の海を,…人びとが往来した場ととらえて,日本列島と朝鮮半島を,対馬(大韓・朝鮮)海峡や日本(東)海,黄海,玄界灘,瀬戸内海,ひいては太平洋を媒介として人びとが活発に交流を重ねてきたひとつの地域,『環海地域』と認識してみたい。」

どある。本書は,

「最も根本的な問題として,これまでの研究では朝鮮半島からの視点が欠けている」

という問題意識に立つ。

「日本列島の古墳時代と同じころの朝鮮半島は,北に高句麗,東に新羅,西に百済というように三国が割拠した時代,三国時代だった。また,新羅と百済に挟まれた南部には,加耶と総称される,金官加那・大加耶・小加耶・阿羅加耶などのいくつかの社会が群立していた。さらに,西南部の栄山江流域にも,独自の文化を有する社会が位置している。」

という半島の状況の中で,

「おもに新羅,百済,伽那,栄山江流域など半島南部に位置した社会が,倭と盛んに交渉を重ねていたことが,これまでの研究でわかっている。けれども,これらの社会がどうしてさまざまな先進文化にかかわるモノ,人,情報を倭へ伝えたのか,その目的は何か,という問いに対して,倭の立場からだけで描かれた関係史では,あまり答えることができない。ここに研究の盲点がある。」

一方,中国や朝鮮半島から,

倭人,
倭,

と呼ばれた日本列島に住む人々やそこに成立した社会は,

古墳時代,

にある。

「十六万基という膨大な数の古墳が,日本列島の各地で築かれた。地域を代表する大首長から,それにしたがう中小の首長,集落や家族の長,時には一般の民衆にいたるまで,実にさまざまな人びとが古墳に葬られた。その中で,首長たちが葬られた大きな古墳の多くは前方後円墳で,岩手県から鹿児島県にかけて広がる。(中略)古墳の大小や,前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などというその多様な形から,列島各地の地域社会の間で政治的な秩序が形成されていた,と考えられている。筑紫地域・吉備地域・出雲地域・毛野地域などが大首長を擁する有力な地域社会であり,その頂点に立つのが,多くの巨大古墳が集中する畿内地域に本拠地を置いて倭王を擁する社会だった。(中略)当時の倭は,列島各他のさまざまな地域社会と畿内の倭王権で構成されていた。」

倭の立場から見ただけでは,日朝関係は,所詮,倭の立場から(希望的に)描いたものにすぎない。

「倭に先進文化の受容という目的があるのと同じように,百済,新羅,伽那,栄山江流域それぞれにも,倭と交渉する目的があったはずだからである。その交渉の目的は何か,実際どのように交渉がおこなわれたのかについて,具体的に明らかにしていく必要がある。そして,それぞれの社会にとって倭とは一体どのような存在だったのか,についても考えなければならない。」

し,その交渉の担い手は,王権に一元化されていたわけではない。

「倭と新羅,百済,伽那,栄山江流域の間では,いうなれば王権による外交だけではなく,それぞれに属する地域社会も主体的に交渉を行っていた。そして実際の交渉にたずさわっている集団や個人が存在していた。」

交渉,

つまり,

「人。モノ,情報をめぐる交易や使節の派遣,時には武力の行使などを通して,社会や集団が何らかの利益を得るように,相手側に働きかけること」

は,半島側にもあった。

「半島のそれぞれの社会は,半島情勢をみずからが有利な方向へ動かしていく策のひとつとして,倭とつながろうとしたのであり,一方,倭のほうにも先進文化を安定的に受容するという目的があった。」

つまりは,半島と列島を囲む,広い社会の中での,

倭と新羅,百済,伽那,栄山江流域,

とのダイナミックな三百年の関係を描きだす。その象徴は,いわゆる,

磐井の乱,

と呼ばれる出来事にみることができる。それは,新羅の加耶侵攻に始まる。加耶は倭にとって重要な交渉相手であった。その流れは,

①524年に新羅は加耶への侵攻を本格化させる。この時におそらく加耶が倭王権への軍事的な支援を要請した。
②倭王権は要請を受け入れ,「近江毛野臣」を将軍として,対新羅戦のための派兵を計画する。
③倭王権は北九州の大首長だった磐井に,磐井が管理する玄界灘遠雅言考の港を倭王権の直属とすること,中北部九州への軍事動員をかけるみと,の要求をする,
④磐井は,それに応ずるかを迷っている中,新羅はひそかに「貨賄(まいない)」を贈り,倭王権の加耶派兵阻止を要請した。
⑤磐井は,倭と朝鮮半島を繋ぐ海路を遮断し,近江毛野臣軍の渡海阻止のために挙兵する。

結果として,磐井は鎮圧されるが,新羅の倭の派兵阻止のもくろみは成功したことになる。磐井の意図は何であっか?

「朝鮮半島とのつながりが成長の背景にあった磐井にとって,玄界灘の港を倭王権に接収されることは,みずからの地位や権益が大きく損なわれることだったろう。倭王権の…要求に応じるかそれとも反発するか迷いを重ねていた磐井に,新羅が派兵阻止を要請してきたのである。この時,磐井の中では,百済―加耶―倭王権に対峙する新羅―九州という展望が開けたのだろう。そして倭王権を見限り,戦争へと踏み切った。磐井自身にはそれなりの勝算があったのかもしれない。」

新羅が,列島の社会情勢に通じていた,ということができる。磐井は,

「(当時としては列島第四位の規模の)岩戸山古墳の位置する八女地域に本拠地を置いた地域首長であったことはむろんのことだが,大王墓に準じる古墳の規模や膨大な数の石製表飾の出土からみれば,九州各地の有力首長間の連携をリードした大首長だったと評価できる。」

という位置や,倭王権との微妙な関係にくさびを打ち込む新羅の政治的手腕もなかなかである。

半島と列島との,政治的な関係,繋がり,文化的な交流等々,この時代の日朝は,まさに,

一衣帯水,

というより,著者の言う,

環海地域,

と見ることが,正鵠を射ている,とつくづく思う。

「三世紀後半から六世紀前半の朝鮮半島には,高句麗,百済,新羅,加耶,栄山江流域などの社会が割拠し,遠交近攻のような関係でしのぎを削っていた。特に,高句麗が朝鮮半島中南部への進出をもくろむようになると,百済,新羅,加耶,栄山江流域などの社会は,国際情勢を有利に展開させていくために,さまざまな対外戦略を取る必要があった。
 その戦略のひとつに,海をへだてて位置する倭との通交があった。さまざまなモノ,人,情報を倭へ提供することで,みずからの側へ引き入れ,その関係を他の社会に誇示することで,情勢の安定に努めようとした。すなわち,百済,新羅,加耶,栄山江流域社会それぞれにとって倭は,戦略的に重視しなければならなず,友好関係の確立が必要な『遠くて近い』社会だったのだ。」

朝鮮側にとって,倭との結びつきが,重要な外交的な意味を持っていた。だからこそ,倭は,

先進文化を受け入れ,自らのものとすることができた,

ということができる。

参考文献;
高田貫太『海の向こうから見た倭国』(講談社現代新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:11| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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