孫子


金谷治訳注『新訂 孫子』を読む。

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本書は,

「兵とは国の大事なり」

と,「五事七計」から論じはじめる。「五事」とは,

「一に曰わ く道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり。」

とし,「七計」とは,

「主 孰れか有道なる、将 孰れか有能なる、天地 孰れか得たる、法令 孰れか行なわる、兵衆 孰れか強き、士卒 孰れか練いたる、賞罰 孰れか明らかなると。」

である。ふと,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/449836582.html

で取り上げたクラウゼヴィッツを思い起こす。

「戦争は政治的交渉の継続にほかならない,しかし政治的継続におけるとは異なる手段を交えた継続である」

「戦争は,とうてい政治交渉から切り離され得るものではない。もしこの二個の要素を分断して別々に考察するならば,両者をつなぐさまざまな関係の糸はすべて断ち切られ,そこは意味もなければ目的もないおかしな物が生じるだけだろう。」

兵の強さは,国のありようの延長にある。兵力のみを問題にする愚は,今日の北朝鮮を見れば一目瞭然である。その上で,

「兵とは詭道なり。」

と説く。しかし,「五事七計」によって,

「算多きは勝ち、算少なきは勝たず。」

と。既に,

「夫れ未だ戦わずして算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。」

目算も立たず,戦を決意する者は,第二次大戦の我が国の指導者以外にはない。その愚行は,『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』

http://ppnetwork.seesaa.net/article/448110449.html

で触れた。だから,孫子は言う,

「凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るはこれに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るはこれに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るはこれに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るはこれに次ぐ。是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。」

因みに,

「軍は一万二千五百人の部隊、旅は五百人、卒は五百 人から百人、伍は百人から五人までの軍隊編成。」

とか。どのレベルでも同じで,

「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。」

と。まさに,「兵とは詭道なり」とはこのことであり,政治が主であり,兵は従である。だから,孫子は,はっきり言う。

「故に上兵は謀を伐つ。其の次ぎは交を伐つ。其の次ぎは兵を伐つ。其の下は城を攻む。攻城の法は已むを得ざるが為めなり。」

と。

「故に勝を知るに五あり。戦うべきと戦うべからざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。上下の欲を同じうする者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。将の能にして君の御せざる者は勝つ。此の五者は勝を知るの道なり。故に曰わく、彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず 己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。」

まさに,「戦うべきと戦うべからざるとを知る」ことのできるものが指導者でなくてはならない。いまだに,平気で,「中国に勝ちたい」などとほざく指導者を持つ国につける薬はない。それが民力の反映だけに,なおさら絶望的である。

「故に兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを睹ざるなり。夫れ兵久しくして国の利する者は、未だこれ有らざるなり。故に尽く用兵の害を知らざる 者は、則ち尽く用兵の利をも知ること能わざるなり。」

と。だから,


「昔の善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ。勝つべからざるは己れに在るも、勝つべきは敵に在り。故に善く戦う者は、能く勝つべからざるを為すも、敵をして勝つべからしむること能わず。故に曰わく、勝は知るべし、而して為すべからずと。」

まさに,クラウゼヴィツの言う,

「戦争によって,また戦争において何を達成しようとするのか,という二通りの問いに答えずして,戦争を始める者はおるまい。また―当事者にして賢明である限り―戦争を開始すべきではあるまい。この問いの第一は戦争の目的に関し,また第二は戦争の目標に関する。,
 これら二件の主要な思想によって,軍事的方向の一切の方向,使用さるべき手段の範囲,戦争を遂行する気力の程度が規定されるのである。そして戦争計画は,軍事的行動の極く些細な末端にまでその影響を及ぼすのである。」

戦争は政治の外延であり,軍人のものではなく,政治家のものでなくてはならない。有名な,武田信玄の,

風林火山,

も,

「故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以てを以て変を為す者なり。故に其の疾きことは風の如く、其の徐なることは林の如く、侵掠することは火の如く、知り難きことは陰の如く、動かざることは山の如く、動くことは雷の震うが如くにして、郷を掠むるには衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて而して動く。直の計を先知する者は勝つ。此れ軍争の法なり。」

単なる戦術と取れば,誤る。信玄が誤ったように。あくまで,戦略の一環でなくてはならない。

なぜならば,クラウゼヴィツの言う如く,

「第一は,政治的交渉は戦争によって断絶するのでもなければ,またまったく別のものに転化するのでもない,たとえこの場合に政治的交渉に用いる手段がいかなる種類のものであるにせよ,依然としてその本質を保持する,ということである。また第二は,戦争における一切の事件の辿る主要な線は,取りも直さず戦争を貫いて講和に至るまで不断に続く政治交渉の要綱にほかならないということである」

これを過てば,戦うこと自体を自己目的化して,無意味な戦いを継続することになる。

『孫子』は,かかって,戦略の書である。つまり,クラウゼヴィツ『戦争論』と同様政治の書である。これを見誤ってはならない。

参考文献;
金谷治訳注『新訂 孫子』(Kindle版 岩波文庫)
クラウゼヴィッツ『戦争論』(岩波文庫)
森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」』(新潮選書)

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