ヤーコブ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』を読む
訳者である日高敏隆氏は,「環世界」という訳語に付いて,
「客観的に記述されうる環境(英語のenvironment,ドイツ語でこれに相当する語は,Umgebung)というものはあるかもしれないが,その中にいるそれぞれの主体にとってみれば,そこに『現実に』存在しているのは,その主体が主観的につくりあげた世界なのであり,客観的な『環境』ではないのである。
それぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて構築している世界のことを,ユクスキュルはUmweltと呼んだ。それは客観的な『環境Umgebung』とはまったく異なるものである。
じつはドイツ語では昔から,客観的な『環境』のことをUmweltといっている。いわゆる環境問題はUmweltproblemeである。その一方,英語にはユクスキュルのいうUmweltに相当する語はない。
…Umweltということばは,ドイツ語を使うデンマーク人の詩人バッゲンセン…が,身のまわりの環境を意味するものとして,1800年に造語したものらしい。その後このUmweltという語はフランス語のミリュー(milieu,やはり同じような意味での環境)の訳語として使われたり…してきた。しかし,Umweltに明確な概念を与え,新しい無認識を打ち立てたのはユクスキュルである。
このUmweltは日本語としては従来『環境世界』と訳されてきたが,…環境とUmweltとは対立するものとユクスキュルはとらえている。そこでぼくは,環境という語を含む『環境世界』はUmweltの訳語としては適切ではないと思い,『環世界』という語に変えることにした。
…『環境』はある主体のまわりに単に存在しているもの(Umgebung)であるが,『環世界』はそれとは異なって,その主体が意味を与えて構築した世界(Umwelt)なのである。」
と説明し,ユクスキュルの「環世界」が「環境世界」とは異なる謂れを説いている。「まえがき」で,ユクスキュルは,主体と環世界との関係について,(行動主義を批判しつつ)こう書くところから始めている。
「われわれの感覚器官がわれわれの知覚に役立ち,われわれの運動器官がわれわれの働きかけ役立っているのではないかと考える人は,それらの器官の組み込まれた機械操作系を発見するだろう。われわれ自身がわれわれの体に組み込まれているのと同じように。するとその人は,動物はもはや単なる客体ではなく,知覚と作用とをその本質的な活動とする主体だとみなすことになるであろう。
しかしそうなれば環世界に通じる門はすでに開かれていることになる。なぜなら,主体が知覚するものすべてその知覚世界になるからである。知覚世界と作用世界が連れだって環世界という一つの完結した全体を作り上げているのだ。」
それは,人には人の環世界があり,ハエにはハエの,犬には犬の環世界がある,ということを意味する。
「つまり,動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて,それぞれの環世界に同じように完全にはめ込まれている。単純な動物には単純な環世界が,複雑な動物にはそれに見合った豊かな構造の環世界が対応しているのである。」
ユクスキュルは,ダニを例にして,
「哺乳類の皮膚腺は最初の回路の知覚標識の担い手である。なぜなら酪酸という刺激が知覚器官の中で特異的な知覚記号を解発し,それらが嗅覚標識として外へ移されるからである。知覚器官の中のこの出来事は,誘導(これがなにかはわからないが)によって作用器官に相応のインパルスを生じさせ,これが肢を離して落下することを引き起こす。落下するダニはぶつかった哺乳類の毛に衝撃という作用標識を与える。これがダニの側に触覚という知覚標識を解発し,それによって酪酸という嗅覚標識が消去される。この新しい知覚標識はダニに歩きまわる行動を解発し,やがて毛のない皮膚に到達すると温かさという知覚標識によって歩きまわるのは終り,代わりに食いこむ行動がはじまる。(中略)哺乳類の体に由来するあらゆる作用のうち三つだけが,しかもそれらが一定の順序で刺激になるのである。ダニをとりまく巨大な世界から,三つの刺激が闇の中の灯火信号のように輝きあらわれ,道しるべとしてダニを確実に目標に導く役目をする。これを可能にするために,ダニは受容器と実行器をそなえた体のほかに知覚標識として利用できる三つの知覚記号が与えられている。そしてダニはこの知覚標識によって,まったくきまった作用標識だけを取り出すことができるよう行動の過程をしっかり規定されている。
ダニを取り囲む豊かな世界は崩れ去り,重要なものとしてはわずか三つの知覚標識と三つの作用標識からなる貧弱な姿に,つまりダニの環世界に変る。」
と,ダニの環世界を描いてみせる。こうした環世界の違いを,ハエ,イヌ,人間で,象徴的に説明する。
「われわれは自分の環世界の対象物で行うあらゆる行為について作用像を築きあげており,それを感覚器官から生じる知覚像と不可避的にしっかり結びつけるので,その対象物は,その意味をわれわれに知らせる新たな特性を獲得する。これを簡単に作用トーンと呼ぶことにしよう。(中略)
作用像を利用して人間と類縁の遠い動物の環世界を描きだそうとするとき,常に肝に銘じておかなければならないのは,作用像とはその動物の環世界に投影された働きであるということである。」
例えば同じ部屋が,人にとって,ハエにとって,イヌにとって,
「自分と結びつける作用トーンの数に応じて異なるようにあらわされている」
図で,環世界の違いを,象徴的に示してみせる。
(人間にとっての部屋)
「人間の環世界では部屋の中の対象物の作用トーンは,椅子は座席のトーン色(オレンジ),テーブルは食事のトーン色(ローズ色),グラスや皿はまた別のしかるべき作用のトーン色(黄色と赤=食物トーンと飲み物トーン)で表されている。床は歩行のトーン色をもつが,本棚は読書のトーン色(藤色),机は書き物のトーン色(靑)を示す。そして壁は障害物のトーン色(緑)をもち,電灯は光のトーン色(白)をもっている。」
(イヌにとっての部屋)
「イヌの環世界では,人間の環世界のものと同じ作用トーンのものは同じ色で示してある。だが,そのようなものは食物のトーン色や座席のトーン色くらいで,そのほかはすべて障害物のトーン色を示している。」
(ハエにとっての部屋)
「ハエにとっては,電灯とテーブルの上のものを除いてすべてのものが歩行のトーン色しかもっていらわかないのがわかる。」
このことからわかることは,盲導犬というのは,
「イヌの利益になる知覚標識ではなくて盲人の利益になる知覚標識を,イヌの環世界に組み込まなくてはならない」
という調教のむつかしさであると,ユクスキュルは指摘している。
ユクスキュルの描く環世界をイメージしながら,片隅で,アフォーダンスのことを考えていた。ギブソンは,
「環境のアフォーダンスとは,環境が動物に提供するもの,よいものであれ,悪いものであれ,用意したり備えたりするものである。(中略)この言葉は動物と環境の相補性を包含している。」
といい,佐々木正人氏は,
「『すり抜けられるすき間』,『登れる桜』,『つかめる距離』はアフォーダンスである。アフォーダンスとは,環境が動物に提供する『価値』のことである。」
と説く。しかし,ユクスキュルの環世界から見ると,アフォーダンスは,人間の環世界のアナロジーにしかなっていないように見える。つまり,人の環世界を当てはめているのではないのか,という疑問がわく。
参考文献;
ヤーコブ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』(岩波文庫)
J・J・ギブソン『生態学的視覚論』(サイエンス社)
佐々木正人『アフォーダンス』(岩波書店)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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