井波律子『中国侠客列伝』を読む。
本書は,
実の部 歴史上の侠
虚の部 物語世界の侠
に分かれている。正直言って,『水滸伝』や元曲『桃花扇』の話をなぞることに何の意味があるのか分からない。それが,時代の精神を何程反映しているのかも分析しないまま,虚構の侠を列挙しても,「実」には対抗し得ない。「虚の部」は不要だと感じた。それくらいなら,「結びにかえて」で取り上げた,清末の,
康有為,
譚嗣同,
秋瑾,
をきちんと紹介しない,その意図がまるで分らない。しかも「実の部」は,東晉で終わっているのである。
「とりわけ転換期には,侠の精神を体現した人びとが登場し活躍することが多い」
というのなら,なおさらなのではないか。宋があり,隋があり,唐があり,元があり,明があり,と各時代末期に必ず「侠」はいたのではないのか,いささかこの本の構成には疑問である。しかも,「実の部」といいつつ,『史記』や『三国志』に依拠しているだけで,何の新しさも感じられない。正直,期待外れである。
義については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/411864896.html
で触れた。そこで取り上げた,冨谷至氏は,
節義,
という言葉を使っていた(『中国義士伝』)。
義については,『孟子』の,
「人皆人に忍びざるの心有り。(中略)人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今,人乍(にわか)に孺子(こじゅし)の将に井(いど)に入(お)ちんとするを見れば、皆怵惕(じゅつてき)惻隠の心有り,交(まじわり)を孺子の父母に内(むす)ばんとする所以にも非(あら)ず。 誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以にも非(あら)ず, 其の声を悪(にく)みて然するにも非ざるなり。 是に由(よ)りて之を観(み)れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。 羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり。 辞譲の心無きは、人に非ざるなり。 是非の心無きは、人に非ざるなり。 惻隠の心は、仁の端なり。 羞悪の心は、義の端なり。 辞譲の心は、礼の端なり。 是非の心は、智の端なり。 人の是の四端有る、猶(な)ほ其の四體有るがごときなり。是の四端有りて、自ら(善を為す)能ずと謂者は、自ら賊(そこな)う者なり。 其の君能はずと謂う者は、其の君を賊う者なり。 凡そ我れに四端有る者の、皆拡(おしひろめ)て之を充(だい)にすることを知らば、(則ち)火の始めて然(も)え、泉の始めて達するが若くならん。 苟(いやしく)も能く之を充にせば、以て四海を保すんずるに足らんも、苟も之を充にせざれれば、以て父母に事(つこ)うにも足らじ。」(公孫丑章句上篇)
にある,
「羞悪の心は、義の端なり。」
とある。つまり,
「惡を憎み羞じる心」
を指す。『論語』の,
「義を見てせざるは勇なきなり」
につながる。しかし,
義侠
と
節義
と
忠義
と
義理
は違う。「義理」については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/441727637.html
で触れた。節義は,
節操を守り,正道を踏み行うこと,
と意味は載る。しかし,この場合,何が正道かが問題である。『孟子』にある,
「我善く浩然の気を養う。敢えて問う,何をか浩然の気と謂う。曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや,義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば,則ち餒う也。」
とある。つまり,
「義と道によって涵養され,義が結集して生み出され,自身が確信し満足する」
という気概である。それは,「士」の心映えを示すものである。その例が,文天祥の,
天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
沛乎として滄溟に塞つ
皇路清く夷(たい)らかに当たりて
和を含みて明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見(あら)われ
一一丹青に垂る
という「正気の歌」につながる。それは,「公」であり,「私」の義侠とは違う。義侠とは,
強くをくじき弱きを助けること,
とあり,
おとこだて,
の意である。著者は,
「『忠』と『侠』のもっとも根本的な差異は,侠者がなんらかの『義』にもとづく行為に踏み切るにさいして,まず個人の自由意思によって,何をなすべきかを選択するところにある」
と書くが,この著者が「義」も「侠」も「忠」もわかっていないことが露呈するところだ。どんな選択も,個人の意思で選ぶ。一見しがらみに縛られているように見えても,そこで選択するのは,個人の意思だ。宋が滅んでもなお,宋に殉じ,元に降伏せず,死を求めた文天祥は,「忠」にこだわっているように見えて,おのれの節義を曲げなかったのだ。それは選択だ。また,秦王政(始皇帝)の暗殺をねらった荊軻の,有名な,
風蕭々とふきて易水寒(つめ)く
壮士一たび去(ゆ)かば復(ふたた)び還(かえ)らず
と歌う心ばえは,「私的」である。ただ,依頼を貫徹しようとする義侠である。そこには,「正道」はない。ないが,負った依頼は,死を賭して貫徹する,というのが,
侠
である。『史記列伝』
http://ppnetwork.seesaa.net/article/447234854.html
で触れたが,秦王暗殺の場面は詳細を究める。そのことについて,司馬遷は,「太史公曰く」として,
「世間では,荊軻といえば,太子丹の運のこと,つまり『天が穀物を雨とふらせた,馬に角がはえた』などの話をひきあいに出す。それは度がすぎる。また『荊軻は秦王に負傷させた』とも言う。すべて正しくない。ずっと以前公孫季功(こうそんきこう)と董生(とうせい)は,夏無且(かぶしょ 御典医。その場に居合わせて薬箱を荊軻に投げつけ,秦王を助けようとした)とつきあったことがあり,彼の事件をくわしく聞き知っていた。わたくしのために話してくれたのが,以上の如くなのである。」
(秦王政(左)に襲い掛かる荊軻(右)。画面中央上には秦舞陽、中央下には箱に入った樊於期の首が見える。)
と書く。秦から前漢へと,秦滅亡後,高祖,恵帝,文帝,景帝を経て,武帝の世となっても,見聞の実話が残っている,そういうリアリティがある。そういう気概が,
侠,
を語る本書の著者にはない。あったら,「物語」の侠を,実在の侠と並べたりはしない。著者が称揚する,「侠」の証とする,
言は必ず信,行は必ず果,
という基準は,孔子の中では低い,その前にはこうある。
「子貢問いて曰わく,何如なるをか斯れこれを士(し)と謂うべき。子曰わく,己を行うに恥あり,四方に使いして君命を辱めざる,士と謂うべし。曰わく,敢えて其の次を問う。曰わく、宗族は孝を称し、郷党は弟を称す。曰わく,敢えて其の次を問う。曰わく,言は必ず信、行は必ず果、硜硜然(こうこうぜん)たる小人なるかな。抑々亦以て次ぎと為すべし。曰わく,今の政(まつりごと)に従う者は如何。子曰わく、噫、斗筲(としょう)の人、何んぞ算(かぞ)うるに足らん。」
と,つまり,
小人であるが,その次には置けない,
と。だから,約束を守って,刺客を全うした荊軻は,
侠の人,
ではあるが,
義の人,
ではない,ということだ。「侠」をきちんと位置づけず,称揚するのは,如何なものか。
参考文献;
井波律子『中国侠客列伝』(講談社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)
ホームページ;
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今日のアイデア;
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