堀新・ 井上泰至編『秀吉の虚像と実像』を読む。
本書は,
実像,
と
虚像,
を対比しながら,
秀吉の生まれと容貌,
秀吉の青年時代,
浅井攻め,
秀吉の出世,
高松水攻めと中国大返し,
清州会議と天下簒奪,
秀吉と女性,
秀吉と天皇,
秀吉はなぜ関白になったのか,
文禄・慶長の役/壬辰戦争の原因,
秀次事件の真相,
豊臣政権の政務体制,
関ヶ原の戦いから大坂の陣へ,
秀吉の神格化,
という14のテーマについて,対比的に掘り下げている。今までなかった試みといっていい。「実像」は,第一次史料,つまり,
書状,
知行宛行状,
武将や公家の日記,
検地帳,
分国法,
宣教師の記録,
李朝実録等の外国史料,
等々の古文書,古記録をもとに分析する。従来,多用されてきた,
小瀬甫庵『太閤記』,
『川角太閤記』
等の軍記物は二次史料として,余り重んじない。しかし,他でも触れたことがあるが,小瀬甫庵は,ほぼ同時代人であり,
寛永11(1634)~14年,
という刊行時期は,まだ存命の人もいたり,直接見聞した人もいたりで,そうそう軽んずべきではないところがある。『川角太閤記』(1621~23)も似た事情である。
『虚像』が,成り立つのは,秀吉ほど,物語化された人物はいないからだ。上記『太閤記』以外にも,江戸時代は太閤ブームというほど本の刊行,歌舞伎化,浄瑠璃化が続いた。竹中半兵衛の子息,竹中重門『豊鑑』,土屋知貞『太閤素性記』,白栄堂『太閤真顕記』,武内確齊『絵本太閤記』,栗原信充『真書太閤記』等々。
豊臣秀吉像(光福寺蔵)
実は,厄介なのは,『信長公記』のように,部下の太田牛一のような人物が記録として残したのではなく,秀吉の祐筆である大村由己が,ほぼ同時期に,
『天正記』
という記録を残していることだ。つまり,秀吉自身が,演出・主演の物語を書かせている,ということだ。秀吉は,類稀な,
自己演出家,
でもあった。『天正記』は,
「天正8年(1580年)の三木合戦から天正18年(1590年)の小田原征伐まで、天正年間の秀吉の活躍を記録する軍記物。別名を『秀吉事記』とも。」
であり,具体的には,
『播磨別所記』(三木合戦の様相を記述する)
『惟任退治記』(惟任謀反記)
『柴田退治記』(柴田合戦記)
『紀州御発向記』(紀伊攻めの記録)
『関白任官記』(秀吉の関白就任の正当性を主張する)
『四国御発向並北国御動座記』(長宗我部元親ら(四国征伐)、および越中国の佐々成政らとの戦いの記録)
『聚楽行幸記』(後陽成天皇の聚楽第への行幸の有様を記録した)
『小田原御陣』
等々で(賤ヶ岳七本槍と喧伝したのは秀吉自身である),しかも,『播磨別所記』については,
「貝塚で蟄居中の本願寺顕如・教如親子の前で由己本人が朗読した」
と伝わっているなど,どうやら,この記録は,軍記物のように朗読された気配がある。『信長公記』も太田牛一自身が朗読したと言われているので,それにならったのかも知れない。
この『天正記』自体が,小瀬甫庵『太閤記』など、後の秀吉主役の軍記物語に大きな影響を与えている,と言われているのだから,虚像は,まず秀吉自身が演出した,といってもいい。
「羽柴秀吉画像」(名古屋市秀吉清正記念館蔵)
その意味では,『太閤記』類が,虚説ではない,という一例が,秀吉糟糠の妻の名前である。
かつては,『太閤記』などによって,
ねね,
とされたが,桑田忠親氏が,
「北政所宛秀吉消息の宛名は『おね』であり,北政所自筆書状には『ね』と署名されているから…『お』は敬称であるから『ね』が北政所の実名」
と主張し,近年は,
おね,
とされるようになっていた。しかし,
「女性が署名する際に,名前の頭文字一時たけ記すのは通例である。そのうえ,室町~安土桃山時代に『ね』という一字の女性は,北政所を除けば,一人もいない。そして『ねね』という女性名は一般的だったので,やはり『ねね』が正しい」
と角田文衛氏が反論したようである。ただ直接的根拠がなかった。(甥にあたる)木下家の「系図」は,
『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)
子為(ねい),
(実家の)『平性杉原氏御系図附言』には,
於祢居(おねい),
(実兄の)『足守木下家譜』には,
寧子,
とあり,定まらない。しかし,
「『ねい』が複数あることは無視できない重みがあろう。」
ということで,近年は,
ねい,
あるいは,
寧,
と当てることが多くなっていた。だが,天正十三年十一月二十一日付「掟」が残されている,という。これは,
豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵)
「秀吉と北政所の間の取り決めを記した三ヶ条であるが,その最終条に『ひでよしおねゝニくちこたへ候ハゝ,いちにち(一日)・一や(夜)しばり(縛)可申事』とある。北政所に口答えすれば一昼夜縛り付ける」
という内容で,そこに,
おねゝ,
と秀吉自筆であるのである。とすると,軽んじられてきた,『太閤素性記』が「祢ゝ(ねね)」と記していたことが正しかった,ということになる。
秀吉,自己演出の影響は端倪すべからず,というべき案件かもしれない。
参考文献;
堀新・ 井上泰至編『秀吉の虚像と実像』(笠間書院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1
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