2017年09月08日

莫耶


『キングダム』26巻「281話『莫耶刀』」で,魏・燕・韓・趙5ヶ国合従軍との函谷関での攻防戦で,楚の千人将項翼が,「莫耶刀」と,自慢気に振りかざしているシーンがあるが,その莫耶刀を調べてみた。

通常,

干将莫耶(かんしょうばくや),

とセットで言われる。『広辞苑』には,

「古代中国の二名剣。呉の刀工干将は呉王の嘱により剣を作るとき,妻莫耶の髪を炉に入れて初めて作り得た名剣二口に,陽を『干将』,陰を『莫耶』と名づけた。」

とあり,それが転じて,

広く,名剣の意,

でも使われる,とある。

『呉越春秋』闔閭内伝,

の故事から来ているらしい。上記の『莫耶刀』は,単なる名剣の意かもしれない。さて,

干将が陽剣(雄剣),
莫耶が陰剣(雌剣),

であるとされる。また,

干将は亀裂模様(龜文),
莫耶は水波模様(漫理),

が剣に浮かんでいたとされる。『呉越春秋』『捜神記』『拾遺記』などに由来するが,

「大きく分けると、この名剣誕生の経緯と、その後日談にあたる復讐譚に分かれている。ただし『呉越春秋』には(現在伝わっている限り)復讐譚にあたる後日談は無い。また、『呉越春秋』では製作を命じたのは呉王闔閭となっているが、『捜神記』においては、これは楚王となっている。なお、製作の過程については、昆吾山にすむ、金属を食らう兎の内臓より作られたとする話を載せるものも存在する(『拾遺記』)。また、後世の作品、特に日本の物については、中国の物とはかなりの差異が生じている。」

『呉越春秋』は,

「後漢初期の趙曄(ちょうよう)によって著された、春秋時代の呉と越の興亡に関する歴史書。」

『捜神記』は,

「4世紀に中国の東晋の干宝が著した志怪小説集。」

『拾遺記』は,

「中国の後秦の王嘉が撰した志怪小説集。」

であり,後者二つは,「志怪小説」である。ただし,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/434978812.html

で触れたように,

「市中の出来事や話題を記録したもの。稗史(はいし)」
「昔、中国で稗官(はいかん)が民間から集めて記録した小説風の歴史書。また、正史に対して、民間の歴史書。転じて、作り物語。転じて,広く,小説。」

である。さて,「干将莫耶」伝は,次のようになっている(莫耶、莫邪の表記については、『呉越春秋』が莫耶、『捜神記』が莫邪となっている)。

『呉越春秋』版では,

「闔閭が越(呉の宿敵として知られ、後に呉を滅ぼした国)から送られた三振りの宝剣を見て、干将に二振りの剣を作るように命じた。干将は、最高の材料を集め(來五山之鐵精、六合之金英。五山とは泰山など五つの山のことで後世の寺とは別、六合とは天地四方のこと。來は「とる」)、剣作りに最高の条件(候天伺地、陰陽同光、百神臨觀、天氣下降)を整え炉を開いた。しかし、急に温度が低くなり鉄が流れ出なかった。そして三月たってもいっこうにはかどらなかった。そのような現象が起こったとき、かつて彼らの師は夫婦で炉中に身を投げて鉄を溶かしたことがある。そこで妻の莫耶が自身の爪と髪を入れ、さらに童子三百人にふいごを吹かせたところようやく溶けた。そして、完成した名剣のうち、干将は隠して手元に置き、莫耶を闔閭に献上した。ある日、魯の使者である季孫が呉を訪れたとき、闔閭は彼に莫耶を見せ、与えようとした。季孫が鞘から抜くと、刃こぼれがあった。これを見た季孫は、呉は覇者となるであろうが、欠点があれば滅亡すると予測し、ついに莫耶を受け取らなかった。」

と,主にその製作経緯、過程が語られる。魯の使者がこの剣を見て、呉の将来を予想し、物語は終わる。

『捜神記』版では,

「楚国の王は、名工・干将に二振りの剣を作るよう命じる。 しかし、剣の鋳造をは遅れに遅れて3年掛かってしまった。 この失態に干将は自分の死を予見し、自分の子を身籠っていた妻・莫耶に『私が殺され、お前のお腹の子が男の子だったならば、出戶 望南山 松生石上 劍在其背(戸を出て、南に山を望み、松の生える石の上、その背に剣あり)と伝えよ』と言い残し、王に雌剣を献上すると命を守らなかった罰として処刑されてしまった。
その後、莫耶が男の子を生んでその子・赤(せき)が成人すると、赤は父の所在を母に尋ねる。父が王によって殺されたことと父からの遺言を知り、赤は復讐を誓う。遺言に従って雄剣を手に入れた赤だったが、王はその事を知って赤に懸賞金を掛けて山へと追い詰める。悔し涙にくれる赤だったが、彼の前に旅人があらわれ、赤は自分の首を土産にして王に近づき殺してほしいと旅人に懇願した。 旅人がそれを了承すると赤は雄剣を旅人に託し、剣で自分の首を刎ねさせた。
赤の首を手土産に王に近づいた旅人は、喜ぶ王に向かって「これは勇士の首ゆえ、釜で煮溶かさなければならない」と進言し、王はこれに従った。しかし、三日経っても首は煮溶けず王をにらむばかりであったので、旅人は王に鎌の中をもっとよく覗くように進言する。そして王が釜の真上に顔を持っていった瞬間に、託された剣で王の首を刎ねて殺し、そして自分の首も刎ねて自害した。 三者の首はこれによって煮溶けて分からなくなり、共に埋葬されてその墓は「三王墓」とよばれるようになったという。」

と,『呉越春秋』よりも後世の逸話で,呉王闔閭ではなく楚王となっているほか,主に後日談が語られる。

その他,『拾遺記』では,製作の過程で,昆吾山にすむ金属を食らう兎の内臓より作られたとする話を載せる。日本にも,『今昔物語集』巻第九第四十四に,

「震旦莫耶、造釼獻王被殺子眉間尺語(震旦(シナスタン=中国)の莫耶)、剣を造り王に献じ子の眉間尺を殺される話)」

が載るし,『太平記』巻第十三には,

「兵部卿宮薨御事付干将莫耶事(兵部卿宮死去のことと干将莫耶のこと)」

が載る。結構知られた逸話で,『おくの細道』でも,芭蕉が,月山に登った折,

「谷の傍に鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶霊水を撰びて、ここに潔斎して剣を打つ。終に月山と銘を切つて世に賞せらる。彼の龍泉に剣を淬ぐとかや。干将莫耶の昔をしたふ、道に堪能の執あさからぬ事しられたり。」

と記していた。

ところで,この「干将莫耶」,どうやら,

鋳剣(鋳造によって作成された剣)

であるらしいのだが,これは銅剣であろうか,鉄剣であろうか。兵馬俑坑には,

クロムメッキされた青銅剣,

があり,武器の大半は,青銅器ではなかったか,と想定される。しかし,『史記』などには,

「名鍛冶屋といえるような人物の記録もありますが、彼らは青銅製の剣も作れば、鉄製の剣も作っていました。
つまり、1本2本というレベルならば、鉄製の名剣もあったわけですが、大量生産できるレベルではなかったということです。」

とか,

http://kkomori.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_b3f7.html

「秦は中国史上最初に天下を統一した王朝で、他民族封建国家である。紀元前221年に斉・魏・趙・韓・燕・楚の六国を滅ぼし、長期にわたった、群雄割拠の状態を終結させた。秦でも製鉄技術の発達は著しかったが、生産に用いる工具は多く見られるようになったものの、鉄製の武器は極めて少なかった。真の軍の主力は依然として青銅製であり、青銅器の製造技術および品質は、最高水準に達していた。」

とか,

http://kkomori.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2971.html

等々にあるように,

「遅くとも紀元前6世紀、春秋末期には、製鉄技術をおぼえ、鉄器を鋳造すること、鍛えることなどの技術が同時に現われ、その中での最先端が鉄剣であった。戦国時代には鋼鉄の生産はかなりの高水準に達して」

いたようだから,当然,「干将莫耶」は,鉄剣,と目される。だが,鍛冶製法によって作られた日本刀とは,また別の切れ味なのだろう。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E5%B0%86%E3%83%BB%E8%8E%AB%E8%80%B6
https://dic.pixiv.net/a/%E5%B9%B2%E5%B0%86%E3%83%BB%E8%8E%AB%E8%80%B6
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11135821001
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