2017年09月14日
秀次の切腹
矢部健太郎『関白秀次の切腹』を読む。
秀次については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/440783746.html
で,藤田恒春『豊臣秀次』を取り上げた。そこでも秀次が自裁なのか賜死なのかが問題になっていたが,本書は,「秀次の切腹」そのものに迫る。
「『秀次事件』の全体は一ヶ月に及んでおり,少なくとも三つの大事件,具体的には,『秀次失脚事件』『秀次切腹事件』『妻子惨殺事件』が連続して発生している。」
これまでは,この連続性は,
「秀吉の怒りが増幅した結果」
として処理されてきた。この流れは,本書で,史料に基づき,次のように整理されている。
七月三日 石田三成ら四名,秀次謀反について尋問(『大かうさまくんきのうち』)
八日 秀次出奔(『御湯殿上日記』『言経卿記』)
十日 秀次高野山到着(『島津家文書』『吉川家文書』)
十二日 「秀次高野山住山」令が発給される(『佐竹家旧記』)
十三日 「秀次切腹命令」が発給される(『甫庵太閤記』)
十四日 三使(福島正則,福原正堯,池田秀雄),高野山到着(『甫庵太閤記』)
十五日 聚楽第の秀次妻女居所の取り壊しが発令(『賀茂別雷神社』)
木村常陸介,秀吉の命により切腹(『言経卿記』『兼見卿記』)
同巳刻,秀次切腹
二十日 諸大名血判起請文作成,秀次遺領配分に関する朱印状作成(『木下家文書』『佐竹記旧記』)
二十五日 三成書状発給「今度関白殿御逆意顕形ニ付而,御腹被召」(『伊達家文書』)
八月二日 秀次妻子ら三十余名,三条河原にて処刑(『御湯殿上日記』『言経卿記』『兼見卿記』『大かうさまくんきのうち』『甫庵太閤記』)
実は,『甫庵太閤記』の切腹命令には,一次史料はなく,信頼できる一次史料は,秀次切腹の3日前の秀吉の文禄四年七月十二日付朱印状,
「秀次高野山住山」令
のみである。それは,
高野山側に秀次の住山(高野山で生活する)について命じた法令
で,
秀次高野山住山之儀ニ付被仰出条々,
として,口語訳で,次のような指示がなされていた。
一、召し使うことのできる者は、侍十人〔この内に〔坊主・台所人(料理人)を含む〕、下人・小者・下男五人を加え、十五人とする。この他に小者を召し仕うことは一切禁止する。ただし、出家の身となり袈裟を着ている以上は、身分の上下にかかわらず、刀・脇差を携帯してはならない。加えて、奉公する者の親類を召し置いてはならない。)
一、高野山全山として、番人を昼夜問わず堅く申し付けるように。もし下山させるようなことがあれば、高野山全山に成敗を加える。
一、高野山の出入口ごとに番人を置き、秀次を見舞う者は固く停止させること。
史料で,明確なのは,秀次切腹の日時である。
七月十五日巳刻(『兼見卿記』)
十五日よつ時(『御湯殿上日記』)
つまり,十五日午前十時頃,である。それを基点に,一連の時系列を,検証した結果,筆者は,
「十三日付『切腹命令』は実在し,十四日夜に高野山に届けられたという『甫庵太閤記』の描写はフィクションであって史実ではないと結論づけられる。『五奉行』による『秀次切腹命令』は,文禄四年七月十三日の時点では存在しておらず,甫庵が江戸期に創作した『偽文書』として判断してよいだろう。」
と結論を下す。その上で,上記,「秀次高野山住山」令にあるのは,
「文禄四年七月十二日時点での秀吉の『真意』を朱印状として成文化したもの」
であり,
「それを持参した『三使』が高野山に到着した時点で秀次に命じられたのは『高野山住山』=『禁固刑』だったといってよい。逆にいえば,秀吉は秀次に『切腹』=『死刑』を命じたわけではなかったのである。」
筆者は,秀次が切腹した,
清巌寺,
は,秀吉が大政所の菩提弔うために建立した寺である。
「秀次がこの清巌寺の一室・柳の間で切腹したこと自体に不可解さを感じていた」
と書くが,当時の人にとって,高野山へ追放された人が,切腹させられること自体にも衝撃を受けたらしいのである。
「当時の人々の感覚として,高野山への『入山』とは『世俗社会からの死』と同義であった。それゆえ,高野山に入山した人物が切腹したことは,かつてない衝撃」
だった。『御湯殿上日記』には,
「くわんはくとのきのふ十五日のよつ時に御はらきらせられ候よし申,むしちゆ(無実)ゆへかくの事候のよし申なり」
とある。
秀吉の命令で,
秀次失脚→秀次切腹→妻子惨殺
が進んだとする視点で,この流れを視るのと,切腹自体が,秀次の意思という視点で,見るのとでは,一連の意味のつながりがまったく変わる。そもそも,
秀次失脚,
は,
関白殿御遁世,高野へ御発可有之好有之(『言経卿記』)
くわんはくとのかうやへ御のほりのよし(『御湯殿上日記』)
もとゆいきり御はしり候ふんにて(『大外記中原師生母記』)
等々,どうやら「追放」ではなく,共通するのは,
「彼自身の意志に基づく『出奔』とする認識」
であり,だからこそ,これで,
「まつしつまり候まま,めでたく候」(『大外記中原師生母記』)
というように,一件落着したという雰囲気だっのである。それを一変させたのが,
秀次自裁,
である。
「秀次の切腹は秀吉や三成らの意志に反する出来事であり,関白職を世襲する『豊臣摂関家』に大きなダメージを与えた。」
その衝撃の大きさが,その報が伝わって以降,二週間後,
「文禄二年八月二日,混乱を極めた『秀次事件』の幕を引くために政権側がなした行為は,いつまでも語り継がれる凄惨な悲劇となった。」
そして,それは豊臣政権のたそがれの始まりでもある。筆者は,最後に,
「結局のところ,この事件には『二つの冤罪』があった。
一つは,『秀吉が秀次を切腹させた』という認識,そしてこの事件が秀吉個人による暴走行為であったという評価である。そしていま一つは,秀次には切腹に相当する罪があったという評価である。」
と締めくくる。しかし,どんなにダメージがあろうと,
秀次妻子三十余人の惨殺,
は,理解を超える。その政権防衛の意思決定プロセスは,まだ藪の中である。
参考文献;
矢部健太郎『関白秀次の切腹』(KADOKAWA)
藤田恒春『豊臣秀次』(吉川弘文館)
http://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2017/01/22/151052
ホームページ;
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