2017年09月21日

信長戦史


日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史』を読む。

信長軍の合戦史.jpg


本書は,桶狭間の合戦の奇襲とか,長篠の合戦の三千挺の鉄炮による三段撃ち等々,『甫庵信長記』などの軍記物によって語られてきた信長神話を,一次史料に基づいた精緻な研究調査により,「従来とは違ったイメージ」を提供しようとしている。既に,周知になりつつあることも含め,本書では,

「できるだけ良質な史料,つまり一次史料を中心に用いて執筆」

することを意図している。

「一次史料とは,同時代に書かれた書状や日記など」

であり,重要な点は,本書は,

「最新の良質な研究成果に基づいて」

執筆されている,というのが売りである。対象は,

桶狭間の戦い,
美濃斎藤氏との戦い,
本願寺・一向一揆との戦い,
姉川合戦,
三方原合戦,
長篠の戦い,
有岡城の戦い,
三木合戦,
鳥取城の攻防戦,
備中高松城の戦い,
本能寺の変,

である。つぶさに見ていくと,信長の,

革新性,
とか,
革命性,

というのが神話に過ぎず,人の使い方,軍の戦略性など,結構同時代と比較して,先へ行っているとばかりはいえない面が見えてくる。さて,この中で,一番に取り上げたいのは,

奇襲の成功例,

として,喧伝された桶狭間の合戦が,実は,正面からの攻撃なのであると明らかにされつつある点だろう。

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(桶狭間の戦図(本書より))


「義元は,桶狭間山に,北西に向かって仁を布いた。(中略)早朝であろう。義元の布陣は,丸根・鷲津両砦を攻撃する今川軍の背後に位置し,中島砦あるいは善照寺砦からの(信長の)援軍を遮断することを目的としていたと考えられる。その時は,主に南西を向いていたのではなかろうか。丸根・鷲津両砦を陥落させたので,攻撃目標を中嶋砦あるいは善照寺砦へと移した。そのため布陣替えを行い,北西に向けて陣を布いたのであろう。」

そこに,織田方の抜駆け佐々隼人正,千秋四郎らの三百が中島砦から桶狭間山へ向かい,今川側は,それを迎え撃つために前進し,平地へと降りていた。善照寺砦にいた信長は,それを見て,中嶋砦へと兵を動かす。二千弱である。今川方は,鳴海城,大高城に入れた人数も含めて,総勢二万弱。桶狭間山に布陣しているのは一万余。

『信長公記』によれば,信長は,家老たちがすがりついて止めるのをふりきり,

「皆の者,よく聞け。あの敵兵は夜行軍を行い,大高城に兵粮を入れ,鷲津砦・丸根砦で奮闘して疲れ切っている兵である。こちらは新手だ。そのうえ,小勢でも大軍に怖れることはない。運は天にあるという言葉を知っているか。敵が攻めてきたら退け,敵が退いたら引っ付いて攻撃せよ。そうすれば,きっと多くを倒し,追い崩すことができるであろう。分捕りをしてはならない。打ち捨てよ。この軍に勝ったならば,参戦した者は家の面目であり,末代までの高名となろう。ひたすら励めと訓示した。」

とある。

「今川軍は,桶狭間山から降りて平地にいたと思われるので,信長はこれがチャンスとみたのであろう。信長は,義元が再び要害の地へ移動する前に攻撃を仕掛けたかったのではなかろうか。」

実は,このとき,

「にわか雨が降ってきた。雹を含んでおり,投げつけるように今川軍の顔に打ちつけた。織田軍には背中に降りかかった。(中略)中嶋砦を出陣した信長は,山際へと進んだ。雨で楠が東へ倒れたとあり,今川軍の顔に,織田軍の背中に降りかかったというので,信長は東向きに進撃したと考えられている。桶狭間山から降りた今川軍であるので,中嶋砦からは東方に陣を布いていたと推測される。
 そして雨は投げつけるように今川軍の顔に打ちつけたというので,風も強かったのであろう。今川軍は前を向いていられない状況だったと推測される。織田軍の動静を監視し続けることが困難な状況だったかもしれない。それに対して織田軍は,前を向き続けられた。」

そして,空が晴れる。『信長公記』は,こう書く,

「空が晴れるのを見て,信長は槍を取り,大声をあげて,さあ懸れ懸れと命じた。織田軍が黒煙を立てて懸ってくるのを見て今川軍は,水をぶちまけたように後ろにどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟・指物などが散乱した様子は,算木を乱したように無秩序に散らばっているようだ。義元の塗輿も捨てた。総崩れになって敗走した。
 信長は,旗本はこれだ。これへ懸れと命令した。未の刻に東へ向かって攻撃した。今川軍は当初,三〇〇騎くらいが,まん丸になって義元を囲み退却したけれど,二度三度,四度五度と,踏みとどまって戦っているうちに,次第に人数が減っていき,ついには五〇騎くらいになった。信長も馬から下り,若者たちと先を争って槍で敵を突き伏せ,突き倒した。」

『信長公記』の記事を,どう奇襲と読み替えたものか,今考えると,不思議ではある。

いま一つ姉川の合戦は,後世の記事とは異なり,完全に,信長側が虚を突かれ,本陣が急襲されたようだ。

「浅井長政が横山城包囲網の最後尾(最北端)にいた織田信長・徳川家康本陣に『奇襲』をかけた」

のは,

「信長や家康は横山城を包囲するに当たり,浅井の居城小谷や,浅井・朝倉軍が横山救援のために陣を置いた大依山に最も近い,龍ケ鼻に陣を敷いていた。これは龍ケ鼻が横山城と小谷城の状況を一望するために,最適の場所と判断したからと見られる。信長・家康としては,大依山との距離も約五キロあり,万が一『奇襲』を受けても対処できる安全圏と考えていたのであろう。」

しかし,地形から見ても,信長本陣が,

「姉川の河原であった部分のすぐ南に位置し,本陣の前は決戦地の河原で,信長の馬廻り以外の武将が並ぶ余地がないことがわかる」

そこを衝かれたのである。つまり,浅井側にそこを衝かれるということは,

「信長の見込みの甘さを露呈するもの」

ということだろう。最後にもう一つ。既に,知られているが,家康の,

しかみ像,

と言われるものがある。三方原の合戦で鎧袖一触,大敗した家康が,浜松に逃げ帰って従軍していた絵師に描かせたもので,家康が,みずからの戒めとしてきたという伝説があった。しかし,

「最近この画像が江戸時代中期に描かれ,尾張徳川宗睦の養嗣子治行の妻である従姫が嫁入り道具として持参し,伝承されたものであることが判明した。さらに,それまで描かれた背景が不明で,明治から昭和初期には,『長篠敗戦』(実際には勝利している)後のものと伝えられていたらしい。肖像画が三方原合戦直後に描かれたものと紹介されたのは,何と昭和十一年だという。つまり,『しかみ像』に描かれた人物は家康ではないかもしれないのである」

と。

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(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)。家康が、三方ヶ原での敗戦直後にこの像を自戒のため描かせたとする伝承は、昭和時代に創作・形成されたもので史料的根拠は存在しない)

肖像画は,武田信玄像,源頼朝像等々もそうだが,伝承とは異なることが多いということか。

参考文献;
日本史史料研究会監修・渡邊大門 編『信長軍の合戦史』(吉川弘文館)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%94%BB%E5%83%8F

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posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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