「みる」と一言で言っても,
見る,
視る,
観る,
は微妙に違う。『字源』によれば,
「見」は,ちょっと目に触れるナリ,マミユと訓むときは,対面の義。
「視」は,気をつけてみるなり,熟視,視察と用ふ,視は聴に対し,見は聞に対す。また視は,比と註し,比べ見る義となる。
「観」は,視よりは一層念を入れてみるなり,また脇から見物するなり,みものとも訓む。壮観・大観の如し。
と対比される。先日,BUNKAMURザ・ミュージアムの,
「ベルギー奇想の系譜展 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで」
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_belgium/
に伺って,「脇から見物」してきた。
「現在のベルギー・フランドル地方で中世末期から発達してきた『幻想絵画』『奇想画』といわれる美術。15世紀から描かれるまるで『本物』と感じさせるような写実的な悪魔や怪物の姿、19世紀からの象徴派・表現主義、20世紀のシュルレアリスムを経て現代に脈々と受け継がれる、およそ500年以上にわたる怖くて楽しくて不思議な奇想の系譜をたどる展覧会。」
という売りで,
Ⅰ 15-17世紀のフランドル美術,
Ⅱ 19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派,表現主義
Ⅲ 20世紀のシュルレアリズムから現代まで
と流れている。正直,絵画史にも,フランドルにも造詣もないし,興味もないので,混雑する人垣の後ろから,さっと流しながら,引っかかった絵だけに,立ち止まった。
ひとつは,フェリシアン・ロップス「踊る死神」。
死してなお,妄執のような姿は,なにやら,日本の幽霊より生々しい。次は,レオン・スピリアールト「堤防と砂浜」。
モノクローム中に,ぼおっと滲む光の暈が,何かスピリチュアルなものを感じさせる。次は,ルネ・マグリットの「虚ろな目」。マグリットについては,「マグリット展」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418482700.html
で触れた。この絵は,そのときなかった気がする。
何とでも解釈できるが,メタの目が若く,いま一つは老いている。老いた現状を,若いつもりのおのれが見て見ないふりなのか,若い自分のイメージをいつまでも,虚像のように描き続けて,老いたおのれを認められない,とでも,あるいは,おのれの中に,老いと,若さがせめぎあっている,とでも,あるいは,老いがうつつ,若さが幻,とは限らず,うつつの老いが幻で,幻の若さが現かもしれない。若さと老いの二重の自画像は,さまざまな思いを抱かせる。
一番興味深かったのは,ティエリー・ドコルディエ「狂った森,No1」である。全体に暗い色調の絵の中に,仄かな明るみが,ぼんやりと見える。闇とも森とも,全体は見分けがつかない。僕には,この作品が一番に思えた。
最後は,トマス・ルルイ「生き残るには脳が足らない」。
重いくて大きい脳が,身体では支えきれずに,地べたに垂れ下がっている。無駄に脳が重いらしい。大事な何かが欠けている,のかも。
ホームページ;
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今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
ラベル:観る ベルギー奇想の系譜展 ザ・ミュージアム フェリシアン・ロップス「踊る死神」 ルネ・マグリットの「虚ろな目」 ティエリー・ドコルディエ「狂った森,No1」 トマス・ルルイ「生き残るには脳が足らない」
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