2017年10月20日


世阿弥編『花伝書(風姿花伝)』を読む。

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「そもそも、花といふに、万木千草において、四季をりふしに咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなはち、おもしろき心なり。と、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。花と、おもしろきと、めづらしき能も住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。」

にある,

「花と、おもしろきと、めづら しきと、これ三つは同じ心なり。」

が気になる。「花」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/449051395.html

で触れた。『大言海』は,「はな(花)」について,

「端(はな)の義。著しく現れ目立つの意」

とし,「はな(鼻)」も,

「端(はな)の義」

とし,「はな(端)」つにいて,

初,

とも当て,「物事の最も先なるところ。まっさき。はじめ」と意を載せる。『古語辞典』も,「鼻」と「端」を同源としている。つまり,「はな(花・華)」は,

「著しく目立つの意のハナ」

で,「はな(鼻・端)」は,ともに,

「著しく目立つ意の,ハナ」

で,顔の真ん中で著しく目立つ,ところからということになる。つまり,

「花と、おもしろきと、めづらしき」

の意は,「花」の原意からみても,通じるのである。

しかし,

「様あり。めづらしきといへばとて、世になき風体をしいだすにてはあるべからず。」

とある。見るものに「めずらしい」と感じさせるのであって,奇をてらうことではない。それは,

「花伝にいだすところの条々を、ことごとく稽古し終わりて、さて、申楽をせん時に、その物数を、用々に従ひてとりいだすべし。花と申すも、万の草木において、いづれか四季をりふしの、時の花のほかに、めづらしき花のあるべき。そのごとくに、 習ひおぼえつる品々をきはめぬれば、時をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体をとりいだす。これ時の花の咲くを見んがごとし。」

と。

「物数をきはめつくしたらんしては、初春の梅より秋の菊の花の咲きはつるまで、一年中の花の種を持ちたらんがごとし。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、とりいだすべし。物数を究めずば、時によりて花を失うことあるべし。たとへば、春の花のころ過ぎて、夏草の花を賞翫せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらんしてが、夏草の花はなくて、過ぎし春の花を、また持ちていでたらんは、時の花に合ふべしや。 」

と。意表をついて珍しいことをすればいいのではない。

「花とて別にはなきものなり。物数をつくして、工夫を得て、めづらしき感を心得るが花なり。」

と。それを,

巌に花の咲かんがごとし,

とも喩える。

「花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の、思ひなれたるところに、思ひのほかに鬼をすれば、めづらしく見ゆるところ、これ花なり。しかれば、鬼許りをせんずるしては、巌ばかりにて、花はあるべか らず。」

と。

「そもそも、因果とて、善き悪しき時のあるも、公案をつくして見るに、ただめづらしき・めづらしからぬの二つなり。同じ上手にて、同じ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつることの、いままた、おもしろくもなき善きのあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、悪しと見るなり。その後、 また善き時のあるは、さきに悪かりつるものをと思ふ心、また珍しきにかへりて、おもしろくなるなり。 」


そして,

善悪不二、邪正一如。

に譬える。

「本来より、善き悪しきとは、なにをもて、さだむべきや。ただ時にとりて用足るものをば善きものとし、用足らぬを悪しきものとす。この風体の品々も、当世の衆人・所々にわたりて、その時のあまねき好みによりてとりいだす風体、これ用足るための花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ人々心心のはななり。いづれをまこと とせんや。ただ、時に用ゆるをもて花と知るべし。」

それは,

「幽玄と強きと、別にあるものと心得るゆゑに、迷ふなり。この二つは、そのものの体にあり。たとへば、人においては、女御・更衣、または、優女・好色・美男・草木には花のたぐひ。か様の数々は、その形、幽玄のものなり。また、あるは、武士・荒夷、あるひは、鬼・神、草木にも、松・杉、か様の数々のたぐひは、強きものと申すべきか。
 か様の万物の品々を、よくし似せたらんは、幽玄のものまねは幽玄になり、強きはおのづから強かるべし。この 分見をばあてがはずして、ただ、幽玄にせんとばかり心得て、ものまねおろそかなれば、それに似ず。似ぬをば知らで、幽玄にするぞと思ふ心、これ弱きなり。されば、優女・美男などのものまねを、よく似せたらば、おのづか ら幽玄なるべし。また、強きことをもよく似せたらんは、おのづから強かるべし。
 ただし、心得うべきことあり。力無く、この道は、見所を本にするわざなれば、その当世当世の風儀にて、幽玄をもてあそぶ見物衆の前にては、強きかたをば、すこしものまねにはづるるとも、幽玄の方へはやらせたまふべし。」

と通じる。

「同じ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつることの、いままた、おもしろくもなき善きのあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、悪しと見るなり。」

にも通じる。申楽は,当時,時代の観客と真剣なキャッチボールをしていたことがよく分かる。

「珍しき、花ぞと、みな人知るならば、さては、めづらしきことあるべしと、思ひ設けたらん見物衆の前にては、たとひめづらしきことをするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。見る人のため、花ぞとも知らでこそ、しての花にはなるべけれ。されば、見る人は、ただ思ひのほかに、おもしろき上手とばかり見て、これは、花ぞとも知らぬが、しての花なり。さるほどに、人の心に思ひもよらぬ感を催すてだて、これ花なり。」

まさに,

秘すれば花、秘せぬは花なるべからず,

である。

芭蕉『笈之小文』の,

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
 旅人と我名よばれん初しぐれ」

とあるのと,通じるところが,もちろんある。しかし,造花に従い,造花にかえるだけでは,花ではない。その時々の目の付け所は造花をメタ化する目がいる。その「公案」こそが,「花」の鍵,と見たが,僻目か。

「いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、とりいだすべし。物数を究めずば、時によりて花を失うことあるべし。」
「この道を究め終りて見れば、花とて別にはなきものなり、奥義を究めて万に珍しきことわりを、われと知るならでは、花はあるべからず」

に謂い尽くされている気がする。


参考文献;
世阿弥編『花伝書(風姿花伝)』(講談社文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:06| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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