2017年10月24日

認知的不協和


レオン・フェスティンガー『認知的不協和の理論―社会心理学序説』を読む。

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「個人は自分自身の内部に矛盾がないようにと努力する。」

と書きだされた本書で,著者は,

「<矛盾>という言葉を,論理的内包の少ない言葉,すなわち不協和(dissonance)という言葉に置き換えよう。同様に,<無矛盾>という言葉をもっと中立的な言葉,すなわち協和(consonance)という言葉に置き換えよう。」

と述べ,さらに,類語「葛藤」との違いを,

「決定にいたるまえには,人は葛藤の状況におかれている。しかし,ひとたび決定を下せば,かれはもはや葛藤の状態にはいない。かれは選択を終え,いわば,葛藤を解決したのである。かれは二つあるいはそれ以上の方向へ同時に突き動かされることはない。そこでかれは自分の選んだ行程を進んでいこうとする。このときはじめて不協和がうまれるのである。この不協和を低減しようとする圧力は,その個人を同時に二つの方向へと突き動かしてはいない。」

と書く。で,「認知的不協和」とは,

「二つまたはそれ以上の選択肢の取捨について行われた後には,ほとんどつねに不協和が存在する。選ばれなかった選択肢のポジティヴな性質に対応する認知要素と,選ばれた選択肢のネガティヴな性質に対応する認知要素とは,その行為〔決定〕を行ったという知識と不協和である。選ばれた選択肢のポジティヴな性質ならびに選ばれなかった選択肢のネガティヴな性質に対応する認知要素は,その行為を行ったということに対応する認知要素と協和的である。」

とある。そして,

「不協和の存在は,その不協和を低減させる圧力を生ぜしめる。」
「不協和を低減させる圧力の強さは,既存の不協和の大きさの函数である。」

と。しかし,

「二つまたはそれ以上の選択肢の取捨について行われた後には,ほとんどつねに不協和が存在する。」

という前提が正しいのかどうか,僕には疑問である。この前提が崩れると,実は,この仮説は意味をなさないのではないか。だから,本書の末尾で,著者は,急に,パーソナリティの問題を持ち出す。

「不協和の存在に反応する程度,および仕方について,人々の間にはたしかに個人差が存在する。ある人々にとっては,不協和は極端に苦しく耐え難いものであるが,他方,非常に大きな不協和に耐えることができる人々もある。<不協和へのトレランス(耐性)>の差異は,少なくとも大ざっぱに測定可能であるように思われる。不協和へのトレランスの低い人は,トレランスの高い人とくらべると,不協和の存在に対してより多くの不快を示し,不協和を低減させるためにより大きな努力を払うはずである。不協和を低減させる努力にこのような差異があるところを見ると,トレランスの低い人はいつも,かれと同等な,不協和へのトレランスのかなり高い人とくらべて,実際上相当少ない不協和しか持っていない,と考えるのはもっともなことである。不協和へのトレランスの高い人が,かれの認知のなかに<灰色>の部分を残しておくことができるのに対して,不協和へのトレランスの低い人は問題をよりいっそう<白か黒か>という言葉で理解する傾向があると期待してもよいであろう。」

これは,無残な仮説の破たんではないのか。結局認知的不協和はは,パーソナリティによって顕在化したりしなかったりする,ということなのではないのか。現在この仮説が,どの程度影響力を持っているのかどうかわからないが,決定の後の迷いを,あえて,認知的不協和と呼んだにすぎない気がしてならない。

人は,決定に当たって,いつも選択肢を明確に吟味するのではなく,ほぼ直観でする,とは,よく言われていることだ。つまり,

「目的を明示し,選択肢を探索し,妥当する目的に応じて選択肢の順位を位置づけ,そして好ましい選択肢を選ぶ」(『決定の本質』)

というようには,意思決定されない。だから決定後に迷う。だからといって,認知的不協和に立ち止まるとは思えない。一旦意思決定された時点で,既に現実は動いており,暇人でなければ,決定後の事態に対応するアクションに余念がないからだ。でなければ,決定自体がふいになる。それを,「不協和の低減」と呼ぶのはいささか,理解不能である。もし,決定が誤っているとするなら,不協和の低減ではなく,決定自体の取り消し以外にはない。

僕には,本書の仮説は,非常に狭い個人の中に閉じこもった,密室の仮説に思えてならない。たしか,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/438821677.html

で取り上げた,『社会心理学講義-〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(小坂井敏晶)は,

「閉じたシステムとして社会を把握したフェスティンガー」

と,呼んでいた気がする。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163239.html

でも取り上げたが,社会心理学という学問が,基本的に,どうにも好きになれない。

参考文献;
レオン・フェスティンガー『認知的不協和の理論―社会心理学序説』(誠信書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:08| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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