2017年10月25日

幕府歩兵隊


野口武彦『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』を読む。

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「幕府歩兵隊は,幕末激動期を駆け抜けていった兵士集団である。
 その運命は数奇をきわめた。幕末も押し迫った文久二年(1862),徳川幕府の手で軍事改革の一部として創設され,間もなく内乱の戦線に投入されて諸方面で戦ったが,あまり戦果を挙げないうちに慶応四年(1868)幕府は瓦解し,正規の部隊としては消滅してしまう。ところが主力は江戸を脱走して官軍に対抗。東日本各地を転戦して勇名を馳せ,明治二年(1869)に箱館(函館)で降伏するまで戊辰戦争の影の花形になって活躍した。」

本書の冒頭はこう書きはじめられる。これが,「幕府歩兵隊」の概要でもある。わずか7年,

「最後の1年半だけ流星のように光芒を放って消え」

た。天狗党討伐,長州戦争,鳥羽伏見と,実は,連戦連敗とは言わないまでも,大した成果を上げていない。皮肉なことに,

「幕府歩兵隊が見違えるように強くなったのは幕府が瓦解してからであった」

という。第一歩は,老中安倍正弘の,幕府軍事改革としてスタートする。

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(本書より〔『水門合戦聞取書』〕)


「安政元年(1854)に起案され,同三年に開設された講武所である。幕府が海防の緊急性を痛感して開いた旗本・御家人の武術講習所であるが,剣術・槍術などの伝統的な武芸のかたわら,西洋流の砲術が取り入れられた。同五年には深川・越中島には銃隊調練場もでき,当局は兵備の近代化に熱を入れていた。」

しかし,銃隊調練を開始しても,

「直参旗本たちの間には洋式軍隊に対する根強い拒絶反応があった。欠席者が多くて稽古にならない。何しろ鉄砲を持たされるのが嫌だ,武士たる者が浅ましい西洋人の恰好をして調練の真似ができるかというのである。」

で,

「やむなく幕府が『歩兵組』の設置を布告したのが文久二年(1862)十二月であった。歩兵人員は旗本が差し出す『兵賦(へいぶ)』をもって編成するというのである。」

それは,将来的には全土の防衛を視野に入れた「常備軍」備えるという展望を持ち,まず将軍直属の「親衛常備軍」を編成するというものであった。オランダ兵制を手本に,

「総軍を歩兵・騎兵・砲兵の三兵種をもって編成」

を旨としていた。「兵賦」は,「本来は,軍役課徴金という意味」だったが,この時期,差し出された兵士当人をさしていた。つまり,幕府の目論見では,歩兵は,重歩兵と軽歩兵の二種があり,

「重歩兵は,士分以下の兵卒であり,旗本の知行地から供給させる。旗本の知行高に応じて五百石は一人,千石は三人,三千石は十人という割合で賦課する。但し,五百石以下及び端高(たとえば千三百石取りの三百石分など)・足高(役職手当),蔵米取は兵賦の代りに金納。百石から五百石以下までは百俵につき金二両,五百石以上千石までは同金二両二分,千石以上は同金三両。旗本の負担は累進制である。全部で,六千三百八十一人の計算になる。」

ということだったが,現状の旗本窮状に鑑み,

「当分の間は,三千石以下から五百石までは右の半分でよい,もし兵賦を出すのに差し支えがあったら半減の金納でもよいと条件を緩和」

し,さらに五百石以下は「追つて沙汰まで」兵賦・金納の猶予を与えている。結局幕府当局者が躍起になるほど見込み通りには集まらなかった。

「どの知行地でも農民がいやがって,なかなか『正人』が揃わない。年に十両を天井と定めた給料では人手が集まるわけもなかった。事実この『最高賃金』は守られず,屯所では公然と二十両,二十五両の相場が立ち,(中略)幕府直轄地では,…何と兵賦一人に五十両まで値上げした例すらある」

という状態であった。この連中,オランダ陸軍調練書に基づいて,

「先ず直立不動の姿勢から叩き込む。『頭-右』の号令で,首を右に向ける。『直れ』で復帰。『小隊右-向け』で,小隊四十人全員が一斉に顔だけを右に向ける。『小隊前へ-進め』で更新を開始するが,かならず左足から踏み出す。」

という調子で,訓練される。当時の日本人の「ナンバ歩き」,右足と右手,左足と左手が一緒に出る,それを矯正するところから始めるのである。こうして鍛えられた歩兵隊は,天狗党討伐,徴集戦争と,実戦を積んでいく。しかし,長州での敗戦に危機感を持った幕府は,再度の兵制改革に乗り出す。要は,兵賦差出しから,

「歩兵を全員新規抱え入れ,すなわち幕府直接雇用」

としたこと,さらに,天狗党討伐の失敗から,それまでの横浜駐屯のイギリス軍士官によるイギリス式伝習から,フランス式伝習に切り替えた。この中から,大鳥圭介が台頭してくる。

こうして幕府が精魂込めて作り上げた歩兵隊は,わずか鳥羽伏見で,薩長と遭遇戦に関わっただけで,幕府瓦解に至る。勝海舟が敗戦処理をするさ中,幕府兵隊は,いくつかに分かれて脱走していく。衝峰隊,伝習隊二大隊を中心とする大島脱走隊など。

諸隊は,北関東,日光,福島,長岡,会津と転戦し,函館・五稜郭で降伏するまで戦い続ける。面白いのは,

「幕府歩兵隊は日の丸の旗を押し立てて政府軍と戦った。諸藩から掻き集められた新政府軍の官軍は菊花の紋章を染め抜いた旗を掲げて攻めた」

ことだろう。日章旗を定めたのは,老中阿部正弘であった。

それにしても,本書は読みにくい。著者の思い入れからか,途中で脱線,単なる歩兵隊史をたどるふうにはならず,幕府歩兵の創設から解散までが,横道に入りながら語られるのには,閉口する。改めて,全体の流れを整理しようとすると,ほんとに厄介至極な書き方になっているのだ。さらに,内容としては,歩兵隊の士官や指揮官の大鳥圭介だの土方歳三だのにとらわれ過ぎて,肝心の幕府歩兵の話が,マスとして語られるだけで,個々の姿がわずかしか見えてこない。これは,少しまずいのではないか。

参考文献;
野口武彦『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』(中公新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:05| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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