2017年10月31日
公案
「公案」は,一般には,
「禅宗特に臨済宗で祖師たちの言行録を集めて,それを求道者に示し,参究するための手だてとした問題。求道者は,師家すなわち指導者からこれを与えられて,一心に参究する。仏祖の言行は,政府の律令のように厳守し,参究すべきものであるとされる。『公府の案牘 (あんとく)』という言葉の略されたものである。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)
の意だが,
「中国において,公の案つまり公府が是非を判断した案牘(あんとく),争論中の事件や裁判の文書を意味し,のちには裁判物語を指す。その代表的な作品は,宋代の名裁判官として名高い包拯を主人公にした明代の小説《竜図公案》10巻で《包公案》《竜公案》ともよばれる。もともと《元雑劇》400余本のうち,公案故事に題材をとるものは10%をこえ,とくに包拯を主人公にするのが多かったが,《竜図公案》では,《元雑劇》をはじめ,民間伝説などに題材をもとめつつ,主人公をすべて包拯に仮託したものである。」(『世界大百科事典』)
が始まりである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%A1%88
には,
「中国で、古代から近世までの役所が発行した文書。調書・裁判記録・判例など。
上記の意味から派生して、禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のこと。ほとんどが無理会話(むりえわ)と言われている。一般には『禅問答』として知られる。有名な公案として『隻手の声』、『狗子仏性』、『祖師西来意』などがある。近世には一定の数の公案を解かないと住職になれない等、法臘の他に僧侶の経験を表す基準となった。」
とある。「隻手の声」とは,「隻手音声(せきしゅおんじょう)」とも言い,白隠が創案した禅の代表的な公案のひとつとされる。
「両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声かある」
「狗子仏性くしぶっしょう」とは,狗子(犬のこと)に仏性があるかない,という問いである。『従容録』第十八則では「趙州狗子」。「趙州無字」とも言う,とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%AD%90%E4%BB%8F%E6%80%A7
には,『無門関』に,
「一人の僧が趙州和尚に問うた。
『狗子に還って仏性有りや無しや』(大意:犬にも仏性があるでしょうか?)
趙州和尚は答えた。
『無』」
と。さらに,中国宋代の禅書『五燈会元』(ごとうえげん)の第4には,その続きとして,
「僧はまた問うた。
『上は諸仏より下は螻蟻に至るまで皆仏性あり、狗子甚麼として却て無きや』 (大意:あらゆるものに仏性はあるとされるのに、なぜ犬にはないのでしょうか?)
趙州和尚はまた答えた。
『尹(かれ)に業識性の在るが為なり』 (大意:欲しい、惜しい、憎いなどの煩悩があるからだ。)
僧は更に問うた。
『既に是れ仏性、什麼としてか這箇の皮袋裏に撞入するや』 (大意:仏性があるならなぜ犬は畜生の姿のままなのでしょうか?)
趙州和尚は更に答えた。
『他の知って故らに犯すが為なり』 (大意:自他ともに仏性があることを知りながら、悪行を為すが故である。)」
と。「祖師西来意」も,禅の代表的な公案のひとつ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%B8%AB%E8%A5%BF%E6%9D%A5%E6%84%8F
によると,『無門関』第三十七則に,
「一人の僧が趙州和尚に問うた。
『如何なるか是れ祖師西来意』(大意:達磨大師が遠路、インドから中国へと来られた真意は何なのでしょうか?)
趙州和尚は答えた。
『庭前の柏樹子』」
とあり,『趙州録』に,その続きが,
「また僧は続けて問うた。
『和尚、境を将て人に示すこと莫かれ』(大意:私は禅とは何か尋ねているのです。心の外の物で答えないで下さい)
趙州和尚は続けて答えた。
『我れ境を将て人に示さず』(大意:私は心の外の物で答えてなどおりません)
僧は再度問うた。
『如何なるか是れ祖師西来意』
趙州和尚は、再度答えた。
『庭前の柏樹子』」
と。しかし,僕は,こういうもっともらしい問いとは異なり,「べらぼう」の項,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/421256499.html
で触れた,
如何是仏
乾屎橛(かんしけつ)
という問答の方がはるかに尖っている。10世紀頃の中国で、雲門文偃(うんもんぶんえん)が修行僧から『仏とは何か』と尋ねられ,その答えが「乾屎橛」である。その意は,目の前の何であれ、そこに仏を見る。そこに総ての世界を見る。乾屎橛にこだわってはならぬ。こだわった瞬間、そこに意味をみてしまう。それが柄杓でも、太刀でも構わぬ,ということらしい。「乾屎橛」とは糞べらである。糞べらといっても,かなり違いがあるらしいが,例えば,
http://www.honda.or.jp/honda/gaki.html
によると,『餓鬼草紙』という絵巻物の一場面にある図らしいが,
「道ばたで子どもが排便をしています。大便がつかないように高下駄をはき、しかもはだかです。右手には糞(くそ)べらを持って踏ん張っています。糞べらを支えにして勢いよく大便を出せば,お尻につかなくてすみます。仮についたとしても糞べらでこき落とすのです。」
とある。
閑話休題。
公案の意味の,そうした頭の働かせ方の意を転じて,
工夫,思案,
の意味になる。今日ではあまり使われないが,『風姿花伝』では,その意味の「公案」が,使われている。
「公案を究めたらん上手は,たとへ,能はさがるとも,花はの残るべし。」
「初心と申すは,このころのことなり。一公案して思ふべし。」
しかし,この意で使われる「公案」は,
工夫,
とどう違うのか。『風刺花伝』では,
「よくよく公案して思へ,上手は下手の手本,下手は上手の手本なりと,工夫すべし。」
とあり,「公案」と「工夫」は,区別されているように見える。さらに,
考案,
という言葉もある。『広辞苑』には,「工夫」は,
いろいろ考えて良い方法を得ようとすること,
精神の修養に心を用いること,
とあるが,『世界大百科事典』には,
「中国の宋明学(朱子学・陽明学)で多用された用語。〈功夫〉と書くこともある。当時の俗語(話し言葉)で,〈時間と労力を使う〉〈手間ひまかける〉の意であるが,宋明学では,完全な人格に至るための実践,修行,勉強,努力などをすべてこの語で表現する。たとえば朱熹は,臨終に際して〈堅苦の工夫をせよ〉と枕元に集まった弟子たちにさとした。なお,禅語で座禅専念の意に使われるほか,現代朝鮮語では〈勉強〉を意味し(コンブと発音),ごく日常的に使われている。」
とあるので,「工夫」は,
いろいろ思案する手間を惜しまない,
と,「考える」中身ではなく,その努力の程度の方に力点があるようだ。「考案」は,
工夫をめぐらすこと,
考え出すこと,
という意味だが,『産学連携キーワード辞典』には,
「自然法則を利用した技術的思想の創作(実用新案法第2条1項)をいう。『考案』は、高度性を要求されていない点が発明(自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの)と相違するだけで、発明と本質的に相違ない。しかし、実用新案として登録されるものは、『物品の形状、構造又は組合せに係る考案』に限られている。」
とあるので,「公案」が創案に当たるとすれば,工夫はKnowing howに当たる。「考案」は,ちょうど,「公案」と「工夫」の間,ということになろうか。
参考文献;
http://www.hikari-k.ed.jp/zenchoji/houwa/houwa2302.htm
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/zen/familiarity/h16.html
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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