2017年11月04日
死者の思い
ハグハグ共和国という劇団の「青の鳥 レテの森」(作演出・久光真央)を観てきた。
同じ劇団の「infinity」という芝居については,昨年,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/441793799.html
で触れた。
芝居の構造は,前作と同じだ。前作は,ホスピス病棟,今回は,架空の森,そこで,登場する何組かがドタバタする,というところは,ほぼ同じだ。
今回も,いきなり,森に迷い込んだ,母と兄妹,アイドルの追っかけ三人,ロケハンの三人,バス会社の四人という四組が,得体のしれない黒装束の一団に,無理やり「行けば何でも願いの叶う」という「其処」を目指すゲームに参加させられ,それぞれ,桃太郎(の猿,雉,犬),オズの魔法使い(のライオン,案山子。ブリキの木こり),不思議の国のアリス等々の登場人物に準えられて,「其処」を目指させられる,という結構になっている。
その間のドタバタの渦中では,劇中の四組が何が何だかわからない状態で,振り回されているのと同様,それを観ている観客の側も,わけのわからないまま,そのドタバタの悲喜劇に,引きずり回される。
どうやら,その途中で勝ち残るものが死者で,リタイア,あるいは,殺されたものが,うつつの世界へ戻らされるらしい,ということが分かりかけて,最後,登場人物が全員そろって出てくる時,それまで黒装束だった人たちが,昔の看護師(看護婦という方がいいかもしれない)の服装や,モンペ姿,軍袴姿などで,登場したとき,観ている側は,それまでの全てのモヤモヤが一気に霧消する思いがする。この種明かしの仕方は,僕には秀逸に思えた。瞬間,僕は,
死者と共にいる,
という言葉が浮かんで,胸に滲みるものがあった。そう言えば,前作も,死者と共にいることが通奏低音のように,全編に流れていたことを思い出した。
あるいは,常に,
死者は,見ている,
ということかもしれない。あるいは,
死者の思い,
ということかもしれない。そこには,生きているものの生きざまへの苛立ち,腹立ち,悲しみなどがあるかもしれない。が,それは,同時に,死者そのものの側の生きざまの反映でもある。生き残したことへの思いである。
死者が,全て,戦時中である,ということに,作者なりの意味づけがあるのかもしれないが,そこは,正直,僕には,無理筋に思えた。別に七十何年も遡る必要はないのではあるまいか。3.11でもいいし,日常の交通事故でもかまわない。が,しかし,そこは作者の思い入れ(こだわり),ということにしておくしかない。その意味が,全編に通底しているわけではない。
劇団の案内には,
「前回公演『Infinity』では終末医療の現場、“ホスピス”を舞台とし、
現実世界における命と医療について描きましたが今作の舞台となるのは神話からインスパイアされた世界。神話と童話、精神と現実のダークファンタジーを描きます。」
とある。題名の,「レテの森」の「レテ」とは,
「ギリシア神話の神格で、「忘却」を意味する。ヘシオドスによれば、争いの女神エリスの娘で、ポノス(労苦)、マケ(戦い)、リモス(飢え)、アテ(破滅)らの姉妹とされる。しかし、神としてはなんら活動することがない。レテは普通冥界(めいかい)にある野原、あるいは泉、川のことをさし、またスティクス川(日本の三途(さんず)の川にあたる)の支流ともされる。地下に降りた死者の魂は、レテの水を飲んで生前のことを忘れると信じられていた。」
とある(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)。
「レテの水を飲んで生前のことを忘れると信じられていた」
が,
「レテの河をワタルとすべてを忘れる」
とされている出典なのだろう。しかし,ラスト,
バス事故云々,
についての,切れ切れの音声は,余分ではないかと思えた。ファンタジーは,そこで完結していてかまわない,ここまでの絵解き(というかつじつま合わせ)はかえって興ざめな気がした。上述の通り,全員が,揃って出てきたところで,全ての種明かしは終わっているのではあるまいか。それ以上は蛇足である,と僕には思えた。
書評家の大森望氏が,あるところで,最近,
「現実的で論理的なのがミステリー、非現実的で論理的なのがSF、現実的で非論理的なのがホラー、非現実的で非論理的なのがファンタジー」
と整理されているとか。その通りである。
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