四次元


ルディ・ラッカー『四次元の冒険―幾何学・宇宙・想像力』を読む。

img052.jpg


通常四次元と言うと,三次元空間プラス時間軸の意味で受け取られる。しかし,しかし著者は,冒頭で,

「実在レベルや色や時間によって第四次元を表現しようとするのは見当違いである。ここで実際に必要なのは第四次元空間の概念なのである。」

と言う。確かに,今日の「超弦理論」では,十次元だの六次元だの二十六次元だのと,折り畳まれた次元の話が出てくる。そのとき,次元は,時間ではない。その辺りは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/441553477.html

等々で触れたことがある。

しかし,そのような次元を「視覚化するのは難しい」ということで,著者は,

「その主要なアイデアはアナロジーによって推論することである。つまり三次元を二次元空間で表すのと同様に四次元を三次元空間で表せばよい。4D:3D::3D:2D。この独特のアナロジーは人類に知られた最も古い頭のトリックである。プラトンは,有名な洞窟の比喩でそれを表現した最初の人であった。」

と言い,二次元世界の『フラットランド』というビクトリア時代の二次元世界の話を例に説明に入る。

「フラットランドは平面で,そこに住む動物は平面を這い回っているのである。それを机上に置かれたコインのようなものだと考えてもらってもよい。あるいは,シャボン玉の膜の虹色の模様だとか,紙面上のインクのシミだと考えることもできる。」

しかし,二次元にいる限り,三次元は理解できない。

「君が超空間(ハイパースペース)に引き上げられたものと想定しよう。この有利な地点から私たちの世界を見るとどのように見えるだろうか? 始めに,0Dの点が1Dの線分を二分し,1D線は2D平面を二分し,二D面は三D面空間を二分すると同じように,3D空間は4D超空間を二分することに注目しよう。ちなみに,点のことを零次元=0次元と称している。全空間が一点にかぎられる所では,運動の自由度は存在しないからである。
 私たちの空間によって二つに確定された超空間の各領域を何と呼ぶことができるだろうか。チャールズ・H・ヒントンは,ほぼ上と下という言葉のように使うアナ(ana)とカタ(kata)という言葉を提案している。アナを私たちの空間の上にあるものとして天国とし,カタを下にあるものとして地獄とすると考えやすいかもしれない。」

この時,視点は,超空間にある。あるいは,

「高次元空間のアイデアをまじめに心に抱いた最初の哲学者は,例の大イマヌエル・カントであった。(中略)カントは,晩年になって第四次元の着想に関係した有名なパズル,つまり,人間の片方の腕のほかには全空間が空っぽのとき,この腕が右腕であると明言することは意味をなすかどうか,というパズルを提案した。はっきりしていることは,答えがないということである。左とか右という概念は空虚な空間では意味をなさないからである。
 なぜかを理解する糸口として,そこが手相見の店であることを示す大きなプレキシガラスの看板を想像していただきたい。…手のひらの輪郭とシワが透明なプレキシガラスに描かれている。そこでその看板を一方の側から見れば右手に見えるだろうし,反対側から見れば左手に見えるだろう。ところがこの看板の二次元平面を外から眺めることができることを一度了解してしまうと,手のひらが本当は右手の方だというのは意味をなさないということに気づくはずである。
 同様のことは三次元空間でも正しい。四次元のどちら側から見るかによって,右手に見えたり,左手に見えたりする。別の表現をすれば,右手を四次元空間に引き上げてそれをひっくり返せば左手に変えることができるのだ。」

その意味で,次元は,人の視点を示している。

「空間は位置からできているのだ。そして時空は事象からできているのだ。事象とは,与えられた時刻における与えられた位置といったようなものだと考えられる。個々の感覚の印象はささやかな事象なのである。僕らが経験する事象は,自然な四次元的序列,すなわち東西,南北,上下,遅速といった序列に並ぶ。自分の人生をふり返ってみるときは,実際には四次元的時空パターンを見ていることになるのである。だから,内部から時空を見ているかぎりは,それに不案内だとかいって混乱することはない。」

では,外から見たらどうなるのか,著者はこんな説を提起する。

「普通,誰も,世界は時間の推移とともに変化する三次元空間であると考えている。過去は去り,未来はまだ存在せず,現在だけが現実のものである。しかし世界を見るもう一つの方法がある。すなわち,世界をブロックになった宇宙と見なすことができる。世界を一つのブロック宇宙と考えると,時間と空間が一緒になったものすべてが一つの巨大な物象となる。ブロック空間は一つの時空(spacetime)からなる空間の三次元と時間の一次元を加えたものだ。外から時空を眺めるということは,歴史の外に立って,永遠の相の下で事物を見るということなのだ。(中略)
 つまるところ,僕の世界は僕の感覚の総体である。こういった感覚は,四次元時空におけるパターンとしてごく自然に並べてみることができるものだ。僕の人生は,ブロック宇宙に閉じ込められている一種の四次元の虫というわけだ。(中略)永遠は当然,時空の外にある。永遠とは当然“いまただち”のことである。」

それは,

「ブロック宇宙には客観的に存在する現在がないという点である」

ということだ。だから「感覚の総体」なのである。しかし,それを外からの視点に切り替えたとき,別の世界が見える。

「地上の2D表面は私たちの3D宇宙の部分である。3D宇宙は4D超球体の表面であるかもしれない。4D超球体は,湾曲した5D時空のパターンの断面である。湾曲した5D時空は,たぶん空間と時間が交互に堆積した山の一層にすぎない。6Dの山はそれ自身歪んで,7D空間に織り込まれているかもしれない。さまざまな山の型はともに8D空間の入子になっているかもしれない。たぶん8D空間全体は九次元超時間軸に展開されることができる等々。」

つまり,第四次元は時間とは限らない。

「常に広さと呼んでいる空間の中に,一つの決まった方向があるわけではないのと同様,常に時間と呼んでいる一つの決まった高次元かある必要はないのである。第四次元について語ってきたことすべては,多様な高次元,たとえば空間から跳び出すことができる方向とか,空間が湾曲している方向とか,別の宇宙に達するために通るとかについて考えることを可能にしてくれる。(中略)時間は第四次元だというよりは,時間は高次元の一つであるという方が図と自然である。」

こうしてある種ペダンティックな知的な次元旅行の末,著者は,こう結論づける。

「私たちはなぜ私たちがここにいるか知らない―私たちが何であるかさえ知らないのである。しかし私たちは存在し,世界はこれからも存在し続けていく。私たちの通常の空間と時間の概念はただ便利な虚構にすぎないのである。いたる所が高次元なのである照明をあてる必要もない。第四次元ほど密着した,ただいまここが証明しているのである。」

とは,あまりにも大山鳴動してネズミ一匹に過ぎまいか。冒頭の方にあった,

「類推によって考えれば,四次元生物はどのようにしっかり施錠されたかにはかかわりなく,私たちの部屋であれ密室であれ入り込めることがおわかりいただけるであろう。」

は,ついに腑には落ちなかった。

参考文献;
ルディ・ラッカー『四次元の冒険―幾何学・宇宙・想像力』(工作舎)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

この記事へのコメント