2017年11月13日

布施


お布施,

という言い方をする。しかし,昨今のお寺は,お布施を要求する。果ては,金額まで指定すると聞く。

「布施」は,辞書には,

梵語dānaの訳,檀那破音訳,

として,

人に物を施しめぐむこと,
僧に施しを与える金銭または品物,

とある。

お布施を包む,

という言い方をする。「袈裟」について,

http://www3.omn.ne.jp/~imanari/howahuse.html

に,

「ある日のこと。いつものように説法をして各家々を廻っていたときのこと。ある貧しい家で、『たいへんよいお話を聞き、生きる希望が湧いてきました。しかし、ご覧の通り、私の家は貧乏で、お坊様にあげる物は何一つありません。』『差し上げられる物といえば、赤ん坊のおしめに使っているこの布ぐらいです。』『このような物でもよければ・・・。』
 お坊さんは、ありがたくその糞に汚れて、洗ってはあるものの、黄色くなっている布をいただいた。お坊さんは、その布を寄せ集め、四角い布をつぎはぎして衣を作り着たのです。インドの服装分かりますか? サリーという肩に掛けて纏う着衣です。これが、お袈裟の起源です。袈裟って、よく見ると、小さな布をつぎはぎしてできているのですよ。今度、お坊さんが着ているのを見たら、よく見てみてください。首からかける絡子(らくす)もそうです。そして、基本の色は黄土色なのです。糞掃衣(ふんぞうえ)と言います。」

とあり,さらに,

「誠心誠意、心をこめて人のために施しをすることを布施と言います。だから、暑いときに扇いで風を送ってやることも、困っている人に救いの言葉をかけることも、優しい笑顔を与えることも、皆『布施』なのです。」

とある。別に,

「サンスクリットdānaの訳で,音訳は檀那である。両語を合わせて檀施ということがあり,布施する者を檀那,檀越(だんおつ),檀家ということもある。仏や僧や貧窮の者に衣食を施与することで,仏道修行では無欲無我の実践である。したがって正覚を開くための六波羅蜜の一つにかぞえられる。キリスト教の愛にあたるのが仏教では慈悲であるが,慈悲の実践は布施と不殺生である。日本仏教でも布施はよくおこなわれ,法要があればかならずその後で貧窮者への施しがなされた。」

ともあり,

「法要があればかならずその後で貧窮者への施しがなされた」

とあるように,本来は,修行の一つなのではないか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD

に,

「他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことなど、『与えること』を指す。すべての仏教における主要な実践項目のひとつである。六波羅蜜のひとつでもある。」

とある。「波羅蜜」は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C

に,

「あるいは、玄奘以降の新訳では波羅蜜多とは、仏教において迷いの世界から悟りの世界へ至ること、および、そのために菩薩が行う修行のこと。到彼岸(とうひがん)、度(ど)などとも訳す。六波羅蜜と十波羅蜜があり、大乗仏教では実践を六波羅蜜にまとめている。」

とあり,

「六波羅蜜」は,

「大乗仏教で説く悟りの彼岸に至るための6つの修行徳目。六度彼岸(ろくどひがん)や六度とも呼ばれる。
・布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
・持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
・忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
・精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
・禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
・般若波羅蜜 - 慧(え、Prajñā プラジュニャー)は、慧波羅蜜とも呼ばれ、十波羅蜜の智波羅蜜とは区別される。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための階梯であるとともに、般若波羅蜜を希求することによって調御、成就される。

と挙げられており,布施は,

完全な恵み,施し,

であり,持戒は,

戒律を守り,自己反省すること,

であり,忍辱(にんにく)は,

完全な忍耐,堪え忍ぶこと,

であり,精進(しょうじん)は,

努力の実践,

であり,禅定(ぜんじょう)は,

心作用の完全な統一,

であり,般若は,智慧(ちえ)といい,

仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧。

をいう。その意味で,「布施」は,

布施波羅蜜,

檀那(だんな、Dāna),

であり,修行として,分け与えること,である。いつの間にか,(僧が)受け取る意味だけになってしまっているのは,今日の仏僧のあり様を象徴している。

因みに,智慧としたが,

「厳密には中国に翻訳される場合、それは『慧』と訳され、『智』とは区別されていた。
道倫(どうりん)の『瑜伽師地論記』 に『梵にいう般若とは、これに名づけて慧となす。当に知るべし、第六度なり。梵にいう若那とは、これに名づけて智となす。当に知るべし、第十度な利」とあって、般若を慧、闍那(若那、jāna)を智と、それぞれ訳出して、その意味の区別を考えていたことがわかる。
この慧と智の区別について、慧遠は『大乗義章』の中で、『智』を照見、『慧』を解了とし、『智』は一般に世間で真理といわれるものを知ること、『慧』は出世間的な最も高く勝れた第一義の事実を照見し、それに体達するものであるとする。」

とあり,知ることと体得することを分けていたかに見える。あるいは,「慧」は,「智」のメタ・ポジションと見ることもできる。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:05| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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