2017年11月16日

信長像


日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長研究の最前線2』を読む。

信長研究の最前線2.jpg


本署の「はじめに」で,

「これまでの織田信長は中世を徹底的に破壊し,近世への道筋をつけた『革新者』と評価されてきた。しかし,信長が宗教を徹底的に弾圧した,嫌がる正親町天皇に譲位を迫った,信長の都市・流通政策(楽市楽座など)はオリジナルなものだった,などの見解に対して,今日,研究者の間でも否定的な意見が多数を占めている。信長は中世的かつ保守的であったとの理解が,主流となっているのではないだろうか。」

その意味で,刻々,信長像は,平凡化しつつあるが,それは,

「信長に関する諸説は,明確な史料的根拠や実証がないままに『雰囲気』として継承されてきたものもある。ところが,関係史料を丹念に読み解くことにより,誤りが判明したものも少なくない。あるいは,何の根拠もないのに独り歩きした説があることもわかった。」

前著『信長研究の最前線』は三年前,今回は,結構細部に踏み込んだものが目につく,例えば,

「信長の顔・姿は,どこまで本物に近いのか」

では,残された肖像画を比較する。最も有名なのは,愛知県豊田市・長興寺蔵の画像(長興寺本)。

「桃山時代を代表する絵師・狩野永徳(1543~90)の弟。宗秀(1551~1601)の作と推定されている(画像の裏に押された朱印による)。」

もので,画像の下に,識語が,

「天徳院殿一品前右相府 泰岩浄安大禅定門 天正十年壬午六月二日御他界 右信長御影 為御報恩相 當於一周忌之 辰描之三州 高橋長興寺 与語久三郎 正勝寄進之 天正十一年六月二日」

とある。信長家臣,余語正勝が,報恩のために,一周忌にあたり寄進したものである。

信長.jpg

(上,天徳院殿一品前右相府 泰岩浄安大禅定門 天正十年壬午六月二日御他界。 下,右信長御影 為御報恩相 當於一周忌之 辰描之三州 高橋長興寺 与語久三郎 正勝寄進之 天正十一年六月二日)


この像は,

「面長な顔,エラの張った顎,大きな鼻,はっきりした目,鼻の下とあごの髭,眉間の縦皺が目立つ。」

これ以外の大半の信長像は,束帯姿であるが,この像は,

「肩衣は,萌黄色で胸の前に白い桐紋が描かれている。袴は同色で上端(腹のところ)白く二本の横線が入っている。いわゆる二引両である。
 信長は,永禄十一年(1568)に足利義昭(1537~97)を奉じて上洛した功績に,義昭から『桐紋・引両筋』(『信長公記』),すなわち桐紋と引両紋を拝領している(『信長公記』)。」

神戸市立博物館蔵の信長像も,天正十一年六月二日の一周忌のために作られた。

「冠・束帯姿で,金の桐紋の目貫をつけた太刀をはき,右手に笏を持つ。容貌は鼻が大きく,目がはっきりしており,鼻下に髭をたくわえるなど,信長の特徴がよく現れているが,朝興寺本のような眉間の皺はなく,その分,穏やかな印象がある。」

と。

神戸市立博物館蔵 信長像.jpg

(神戸市立博物館蔵)


これに対して,大徳寺本の信長像は,「その出来のよさから狩野永徳の作とされている」もので,

「面長,鼻がおおきく,鼻下に髭があり,眉間には縦皺がある。月代を広くとっているのは,長興寺本のそれと同じだが,大徳寺のそれは薄くなった髪を写実的に描いている。
 服装は薄茶色の肩衣姿で同色の袴をはき,腰刀を差し,右手に扇を持つ。肩衣の胸には桐紋の下に木瓜紋を二つ並べた,特異な紋が描かれている。木瓜紋は織田家本来のもの,桐紋は…足利義昭から拝領したものである。(中略)信長も…義昭を追放したあとまで,桐紋を使い続けている。」

信長像大徳寺蔵.jpg

(大徳寺蔵)


でこの像は,

「肩衣の内側には,白い肌着と,薄い青地に白い桐紋を散りばめた小袖を着けている」

が,平成二十年から行われた解体修理で,発見されたことがある。ひとつは,

「表から見える小袖の部分に,裏彩色(絵絹の裏から彩色を施すこと)があることだ。の裏彩色は,小袖の向かって右側が萌黄色,左側が薄茶色で,片身変り(衣服の左右の色を変える)になっている。
 つまり,当初は片身変りの小袖が描かれていたが,のちに単色の小袖に変更されているのだ。これらの片身変りの部分にも,桐紋が散らばされている。
 つぎに刀剣の裏彩色について述べよう。現在は腰に細い刀を一本指しているのに対して,裏彩色では,太めの打刀と細い腰刀の二本差しになっている。(中略)
 表面から見られる顔の裏面に異なった顔が描かれていて,その顔の髭は端がはねあがっているのだ。信長の髭は,端がはねあがっている時と,そうでもない時があったらしい。」

この描き直しは,三回忌に当たって,秀吉の意向で,「おとなしめの姿」に書き換えられたものらしい。

どうやら,信長は,結構武威張った,という素顔が垣間見える。一周忌に,それを描いた位だから。

また,義昭との関係を,

室町幕府の「幕府」とは何か,

で,解き明かしながら,「幕府」を,広義の,

「相互に補完し合う,将軍と大名たちをあわせた全体をさす」

場合と,狭義の,

「将軍,およびこれに直属する中央機関而已をさす」

場合とにわけ,義昭追放後も,狭義の幕府機能は,備後国鞆へ移ったもので,追放を持って,幕府滅亡とは言えない,としている。あるいは,足利義政が切り取って以来,109年ぶりに蘭奢待を切り取った一件についての,

信長は,なぜ蘭奢待を切り取ったのか,

あるいは,フロイスのみが指摘していた,自己神格化についての,

信長「神格化」の真偽を検証してみる,

あるいは,多くは本能寺とともに消失したとされる「名物狩り」についての,

「名物狩り」と「御茶道御政道」の実像とは,

あるいは,復元で話題の安土城についての,

安土城「天主」の復元はどこまでかのうなのか,

あるいは,二度にわたる馬揃えをめぐっての,

信長の「馬揃え」は,朝廷への軍事的圧力だったのか,

等々,かなり細かなところを探りながら,信長象の実像に迫っている。細部を検証すればするほど,信長を祭り上げていた虚像とは異なる,生き生きした実像が見えてくる。かえって,その方が,親近感を覚えるのではあるまいか。

参考文献;
日本史史料研究会監修)・渡邊大門編集『信長研究の最前線2』(歴史新書y)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

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posted by Toshi at 05:12| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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