思いの重奏


方の会第61回公演「はかなくも また,かなしくも」(作・平山陽,演出・狭山鉄)を観る。

img063.jpg


啄木の死後,その作品を世に出そうとした土岐哀果ら友人,知人などの人々と残された妻子の物語,である。それを,残された詩歌,手紙を介して,綴っていく。

そのとき,読む人によって,その詩句や手紙の文面の言葉に読みこむ思いや感情は,発信者と受信者とでは違うはずである。あるいはズレルといってもいい。

言葉は,コード化できる。しかし,0と1に転換できない思いや感情は,そのことばを読む側の思いで転換される。発信者の思いと受信者の思いとが同じとは限らないのである。これは,小説を読む時も,詩歌を読む時も,同じである。作者が使った言葉に込めた思いや感情と,その同じ言葉に読者が読みこむ思いと感情は,けっして同じではない。同じなら,それは読書ではなく,摺り込みにすぎない。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389809186.html

で触れたことがあるが,情報には,

コード化できる情報である「コード情報」

コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報である「モード情報」

とがある。その思いや感じを表現した発信者の言葉を,受け手が,その同じ思いで受け取るとは限らない。そもそも同じはずはない。クオリアは人によって違う。人のもっているリソース,つまり記憶には,

意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

等々があるが,その言葉の意味をモード情報に置き換えさせるのは,その人のエピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。人の軌跡が違えば,言葉というコードに載せるモードは違う。

Takuboku_Ishikawa_and_his_wife_Setsuko.jpg

1904年(明治37年)婚約時代の啄木と妻の節子(部分)


本劇の「タイトル」

はかなくも また,かなしくも

は,「家」(『呼子と口笛』所収)の,

 今朝も、ふと、目のさめしとき、
 わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
 顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
 つとめ先より一日の仕事を了へて歸り來て、
 夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
 むらさきの煙の昧のなつかしさ、
 はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び來る――
 はかなくもまたかなしくも。(1911.6.25 TOKYO)

から採られている(後半は略した)。

この「はかなくもまたかなしくも」を,

はかなくも
また,
かなしくも

と三段に別けて記したのは,啄木ではない。この劇の作者だ。その思いは,啄木の思いとは違うはずである。

人は,同じ言葉を使っていても,同じ思いを語っているとは限らない,

のである。この劇が,手紙を使って,書き手と訓み手に語らせていることで,ある意味で,同じ言葉を使いながら,相互に,受け取る思いの違いが生まれる,その多重性がおもしろい協奏,あるいは重奏になるはずである。啄木が,土岐哀果に,

これからもよろしく,

といった言葉以上の思いを汲み取って,哀果は,啄木の遺稿を整理し,全集という形で世に出そうと尽力する。宮崎郁雨の啄木の妻節子への手紙の送り手と受け手の齟齬も,やはりそれだ。言葉を受け取るエピソード記憶とは,その人の自伝的記憶,いわば人生そのものだ。言葉の思いの受け取りに齟齬が生まれて当たり前だ。

おそらく,劇の作者の意図がそこまで狙っていたかどうかは分からないが,随所に,言葉と向き合う,送り手(発信者)と受け手(読み手)との,思いの違いが,言葉を輪唱のように木魅させるはずなのだが。

たとえば,

雨が降っています,

という文を書いた人間が,イメージした雨と,受け手のイメージした雨が違うように,この言葉に託した思いは微妙に違う(あるいは「交う」と書く方がいいかもしれない)。それが,読み交わした後の振舞で現れてくれば,そこにまた別のドラマが生まれると思う。

劇中で使われた,「古びたる鞄をあけて」(『呼子と口笛』所収)

 わが友は、古びたる鞄をあけて、
 ほの暗き蝋燭の火影ほかげの散らぼへる床に、
 いろいろの本を取り出だしたり。
 そは皆この國にて禁じられたるものなりき。
 やがて、わが友は一葉の寫眞を探しあてて、
 「これなり」とわが手に置くや、
 静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出だしたり。
 そは美くしとにもあらぬ若き女の寫眞なりき。(1911.6.16 TOKYO)

この詩を劇の作者が使った意図は,啄木の意図とは微妙にずれるだろう。啄木の思いは,「この國にて禁じられたるもの」と「若き女の寫眞」のギャップにあると,僕なら読むが(とするとこの劇の流れとはそぐわない),その言葉を挿んだ,対峙というか協奏,あるいは重奏こそが,たぶん面白さのはずなのだが。

ところで,人は,二度死ぬ,という。

一度は,生物的に,
二度は,社会的に,

二度目の死とは,その人のことを覚えている人がいる限り,社会的には生きている,という意味だ。啄木は,恐らく,多くの友人の心に巨大な跡を残したのだろう。その強烈な記憶が,その死を惜しむ友人知人が一杯おり,その二度目の死を延命し続けている。そして,今回,その妻子もまた,二度目の死を延命する,これを観た人の心に。その意味で啄木を「遺す」を意図した作者の思いは伝わったと言える。,

「家」の最後の節は,

 はかなくも、またかなしくも、
 いつとしもなく、若き日にわかれ來りて、
 月月のくらしのことに疲れゆく、
 都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
 はかなくも、またかなしくも、
 なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、
 そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
 はじめより空しきことと知りながら、
 なほ、若き日に人知れず戀せしときの眼付して、
 妻にも告げず、眞白なるランプの笠を、見つめつつ、
 ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。

で終る。この啄木の翳は,今回の劇の外にある。それは啄木の『ローマ字日記』にある啄木でもある。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/47892_31512.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/n32e131/tanka/takuboku012.html

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

この記事へのコメント

  • 平山陽

    記事を書いて頂いてから三年が経過した今、こちらを読ませて頂きました。
    作者の平山です。
    タイトルなど、啄木の想いから離れ、この作品として書いた部分を見事に指摘して頂きました。
    細かなご感想ありがとうございます。
    2020年12月05日 22:45