2017年12月07日
意識
ダニエル・C.・デネット『解明される意識』を読む。
二段組,六百頁を超える大著である。
少し前の本なので,本書の主張が,現在どの程度の位置を占めているかは分からないが,著者が,言うほど,明晰に意識が解明された,とは到底思えない。それにしても,この本はどうしてこんなに読みにくいのか。かつて,誰かが吉田拓郎のめんどくささを評して,手旗信号に準えて,ただ赤(旗)揚げる,と言えば済むところを,
赤揚げないで,白揚げないで,赤揚げる,
と言う,と言っていたのを思い出した。白挙げる,と言えば済むのを,
白揚げないで,赤挙げないで,白揚げないで…,
と延々と続け,その間にもさらに入子になった説明が入る。しかもその説明がまだるっこしくて,ついには,何を説明しているのかが,僕のような浅学の徒には,迷路に入り込むように,分からなくなる。
その迷路の果てに,著者は,最後の最後,掉尾に,こう書いている。
「意識についての私の説明は,とても完全なものとは言われない。それは,説明の手始めでしかなかったと言ってもよいだろう。けれどもそれが手始めであるのは,意識の説明を不可能と思わせた,魔法にかかった観念群の呪縛が,それによって断ち切られるからである。わたしは『カルテジアン劇場』という比喩的理論を,一つの〈非〉比喩的な(つまりは,『字義通りの,科学的な』)理論によって置き換えたわけではない。実際のところ,私がしたのは,『劇場』,『証人〔目撃者〕』,『中心の意味主体』,『空想の産物』などの観念を下取りに出して,その代りに『ソフトウエア』,『ヴァーチャル・マシーン』『多元的草稿』,『ホムンクルスたちのパンデモニアム』などの観念を立てることによって,一群の比喩とイメージに置き換えたことでしかない。それでは比喩同士の戦いにすぎないではないかと,あなたは言われるかもしれないが,比喩というのは,『単なる』比喩に『すぎな』いわけではない。それは,思考の道具だからである。誰も,比喩なくしては,意識について考えることは出来ないのだから,手に入る一式のもっとも優れた道具をそろえておくのが,肝腎である。私たちが自分の道具をつかってつくりあげてきたものに注目したらよい。はたしてあなたには,道具がなくても,それらを思い描くことが出来るだろうか。」
この一文に,この著者のめんどくささと,微妙に話をずらしていく手際がよくみてとれるだろう。「比喩」は自分が持ちだした。そのくせ,比喩なしで意識は語れない,と話をずらし,比喩の話へとずれていく。そして,何か肝腎なことが,ずらされていく,というか,ずれている,という感じを抱かせる。ここで問題にしていたのは,この本で意識が解明できたかどうかではないのか。
この一文に,象徴的に,読み手に苛立ちを与える一端が見える。
正直のところ,かつて,『脳のなかの幽霊』( V・S・ラマチャンドラン)等々,いくつもの脳に関わる本を読んだが,本署ほど,一向にワクワクもドキドキもしない本はない。なぜなのかは,上の一文に見える。本書は,ある種,
メタ哲学,
というか,さまざまな理論ををメタ・ポジションから,論ずるメタ理論というやり方のせいなのかもしれないが,それにしても,説明過多,,贅言が過ぎる。
著者の本書での方法は,
ヘテロ現象学,
と名づけた,
「客観的物理科学と三人称的視点へのこだわりから出発して,このうえもなく私的でこのうえもなくいわく言い難い主観的体験(原理的な)の公平を期しながらも,科学の方法論的疚しさをも同時に貫くことが出来るといった,そういった現象学的記述にまで到る〈中立的な〉道」
をとる。つまり,現象学の,
一人称パースペクティブ,
だけでなく,
三人称的パースペクティブ,
からも,併せて見ていこうとする。まさに,主観的アプローチ,客観的アプローチをも,メタ視点から見ようとするものである。
そこで槍玉に挙げられるのは,
究極の観察者,
を措定する,著者の言う,
カルテジアン劇場,
である。著者は繰り返し,
「脳は,究極の観察者がひかえる本部ではあるが,脳そのもののなかにも,そこに達することが意識体験の必要条件であったり十分条件であったりするような,何かさらに密かな本部やさらに内なる聖域があるのだと信じなければいけない理由は,どこにもはない。つまり脳のなかには,観察者などどこにもいないのである。」
と言い,脳の中にある最終的な集中するポイント,という考え方を否定し,代わりに,著者は,
多元的草稿モデル,
という仮説を提起する。それは,
「知覚をはじめ思考や心的活動はどのようなものも,脳のなかの,感覚インプットを解釈したり遂行したりする多重トラック方式にもとづくたがいに並行したプロセスによって,遂行されている。神経系統にに入ってくる情報は,絶え間なく『編集・改竄』に付されているのである。(中略)
このような編集プロセスは一秒間の何分の一という時間の幅で起こっており,その間には,内容の付け足し,合体,修正,重ね合わせなどが,様々な形で,様々な順に生じることが,可能である。私たちは,自分の網膜,自分の耳,自分の皮膚の表面で起こっていることがらを,直々に体験しているわけではない。私たちが現実に体験しているのは,多くの解釈プロセス―実際には多くの編集プロセス-から生まれた,一つの帰結にすぎない。そうした編集プロセスは,比較的生で一面的な表象を取り入れて,それらに照合と改竄とレベルアップをほどこしているのであるが,それらの営みは,脳の多様な部分で生じている活動のの流れ全体を通じて行われている。(中略)ここで私たちは,特徴発見や特徴弁別は〈一度行われるだけでよい〉という,『多元的草稿』の新しい特徴に立ち合うことになる。つまりこれは,ある特徴についての個別的な『観察』がひとたび脳の特定の一部によって行われれば,そこで定着した情報内容は,さらにどこか別のところへ送られて,誰か『支配者づらした』弁別者の手で再び弁別されたりする必要はない,ということを意味する。」
と,「カルテジアン劇場」の観察者は存在しないことを強調している。しかし,それが,脳に構造として,臓器として特定の箇所がなかろうが,意識のポイントは,かつての,
即自・対自,
といったような,メタ構造を持っていると感じさせるところに本質があると思っている。意識の本質は,ここではないのか。その情報処理が,並行的になされていようと,それをメタ・ポジションで見るような感じを抱かせるのは,人類にとって,何か必要があったからこそなのではないか。そこを,否定してしまっても,何の解決にもならない気がする。そもそも,言葉は,意識のメタ化がなくては,生み出せないのではないのか(進化の部分で,自問自答に触れていたが,それがメタ化の話とはつながっていかなかったと,感じる)。
「意識というのは,何かがある一点に到達する,ということをめぐる問題であるのではなく,むしろ何かが,大脳皮質全体もしくはその大部分にわたって活性化の閾値を越えることによって,表象となる,ということを巡る問題であるのではなかろうか。」
この言い換えて,僕には,何かがすり替えられて,その一点への集中の代替案として可なのか非なのかが曖昧のまま,ずるずると,贅言に引きずられてしまう感覚だけが残る。そのことは,人の,
「内的識別状態〈もまた〉,何か特別の『内在的』特性を,つまりは〈ものが私たちに見えたり,聞えたり,味を与えたりす〉るときのその見え方〈聞こえ方,味の仕方など〉を構成する,主観的で,私的で,いわく言い難い特性」
つまり,
クオリア,
についての,著者の見解にも,つながる。クオリアは,ない,と著者は断言する。そして,
「機械と人間という経験主体(…私が想像したワインの質を見分ける機械のことを思い起こされよ)の間に人々があると想像している〈ような〉違いを,私は断固否定しているのである。」
と。メタ化を否定するなら,当然の帰結かもしれない。そして,その究極は,意識の,
バーチャル・リアリティ仮説,
である。
「人間の意識という現象が『ヴァーチャル・マシーン〔仮想機械〕』の働き」
なのであり,つまりは,
「人間の脳の働きを形づくるある種の進化した(そして今なお進化し続けている)コンピュータ・プログラムの働き」
である,というのが結論である。
今日,どう評価されているかは分からないが,脳の活動=発火にともなう,ホログラフィックなものが,意識ではないか,と思っているので,別に脳がソフトウエアに準えられても驚かないが,肝腎のメタ構造を,説明してもらわないと,いまひとつ納得できない。
参考文献;
ダニエル・C.・デネット『解明される意識』(青土社)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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