ヘンリー・ジェイムズ『嘘つき』を読む。

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「噓」とは,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98

によると,

「嘘とは事実に反する事柄の表明であり、特に故意に表明されたものを言う。 アウグスティヌスは『嘘をつくことについて』(395年)と『嘘をつくことに反対する』(420年)の二論文において、嘘について「欺こうとする意図をもって行われる虚偽の陳述」という定義を与えている。」

とある。その場合,「噓」つまり「事実に反する事柄の表明」だと,誰が認知するのか,ということで,話が違ってくる。神の位置から,真偽を判定するのでなければ,「噓」であるかどうか,誰に分かるのか。

本書は,「噓」について,考えさせる三作が載っている。

『五十男の日記』

では,書き手が,相手を魔女だと決めつけて,相手から身を隠した二十七年後,その娘と同じような関係にある青年を通して,自分が二十七年前,自身の思い込み(自分で信じた「噓」と言ってもいいし,先入観と言ってもいい)によって,目をくらまされたことに気づく。そして,ラスト,

「いやはや,なんと多くの疑問が次々と湧いてくることか! たとえわたしが彼女の幸福を損なったとしても,わたしだって幸福にはならなかったのだ。だがそうなれたかもしれないではないか。この年になってそんな発見をするなんて何ということだ!」

と述懐する。でもまだ,自分が決めつけた相手象から自由にはなっていない。

『嘘つき』

は,嘘つきだが,

「大佐の噓はさまざまな種類があったが,どれにも共通の要素があり,それは徹底的な無用性であった。それ故にこそ腹立たしかった。それは普通の会話の場に割り込んできて,貴重なスペースを占領し,その場を実体のないゆらめく蜃気楼のようなものにしてしまうのだ。これがやむを得ずつく噓であれば,丁度芝居の初日の夜,原作者から貰った無料入場券を持って劇場に現れた人に対してのように,それなりの場所が与えられよう。しかし無用な噓は入場券なしで現れた客のようなもので,通路に補助椅子を置いてもらう以上の扱いは受けられないのだ。」

という類で,その大佐の妻が,主人公がかつてプロポーズした女性であるだけに,彼女がどこまでそれを承知しているのか,を確かめたく思い,無理やり,大佐の肖像画を画くことを申し入れ,その大佐の本性を描きだそうと企む。

「大佐の本性を引き出して,…全体像を余すところなく描いてやろるのだ。凡人にはそれが分からないだろう。分かる者には見抜ける筈だ。柄を解する人びとは,きっとその肖像を髙く評価するだろう。それは意味深長な作品で,微妙な性格描写の傑作であり,合法的な裏切りともなるだろう。ライアンは,もう何年も前から,画家と真理研究家と両方の手腕を示すような作品を描いてみたいと望んでいたが,ようやくその機会が面前にあらわれたのだ。」

ほぼ完成したが,見せるのは休暇後と約束したが,旅先で,

「ふと,その絵を再び見て,二,三筆を加えたいという欲求」

にかられて急いで旅を切り上げて帰宅すると,そこに大佐夫妻が来訪し,絵を見ようとしているのに遭遇し,その様子を盗み見る。夫人は,叫ぶ。

「全部出てしまっているわ! 出てしまっていする!」
「一体,何が出ているっていうのだ?」
「あってはならぬものが全部ですよ。あの人が見たもの全部が出てしまっている!ああ,恐ろしい!」
「あいつが見たもの全部だって? それでいいじゃないか! 僕は好男子だものな。どうだい,いい男に描けているじゃないか」
(中略)
「あなたを変人にしてしまったのですもの! あの人は発見したんだわ! これでは誰にでもわかってしまう。」

そうした帰りかけて,大佐は戻ってくると,キャンバスを切り裂いていった。その一部始終を目撃したが,後日再会した折,二人は,作品が切り裂かれたというライアンに,

「何だって!」大佐が叫んだ。
 ライアンは微笑を浮かべて視線をそちらに向けた。
「まさかあなたがやったのではないでしょうね?」
「もう駄目ですか?」大佐は尋ねた。彼は妻と同じく何の疚しいところもないという顔をし,ライアンの質問を冗談と見なしているようだった。「わたしがやったとすれば,またはじめから描いてもらうためですね? それを思いつけば,きっと,やったところですよ!」
「まさか奥さまでもありませんね?」ライアンは尋ねた。
夫人が答える前に,夫はとてもよい答えを思いついたというように妻の腕をつかんだ。
「きっとあの女がやったんだよ!」

ライアンが,夫人が夫の嘘つきであることを知っているかどうかの答は出た。しかし,肖像画家として,本人は,かつて愛した女性の本音を引き出そうとしたのは,あるいは,ライアン自身の自分に対する嘘でもあるかもしれない。本音は,

「ヨーロッパ全体で,半ダースばかりのライアンが最高傑作と折紙をつけている肖像画」

の一翼に加わる絵を描くというのが,本音なのかもしれない。その意味で,『嘘つき』は,正真正銘の嘘つきである大佐を対象にしながら,その実,その嘘つきの,

「どんな鈍い人にも分かるよう,画の中ではっきり出るようにしよう」

という意図にあり,それは達成されたのである。

「彼は一部始終を目撃しながら絵を失いつつあるとは感じなかったし,たとえ感じても気にしなかった。それ以上に,確証を得たことを強く感じていたからだ。彼女はたしかに夫を恥じている。そしてこのぼくが恥じるようにさせたのであり,その意味で,たとえこの絵は切断されてしまっても,大成功を収めたのだ。」

ラストで,

「何しろ,彼女は今でも大佐を愛しているのだ。何とよく飼いならされてしまったことだろうか!」

とライアンは嘆くが,それは多分違うのだろう。ライアンは,画家であり,結局,「対幻想」の土俵に乗り,その幻想を共有するのではなく,それをメタ・ポジションから見る,ということしかできなかった,ということでもある。ここでは,ライアン自身が,自分の噓には気づけていない,と作家は描いているようにみえる。

『モード・イーヴリン』

は,その意味では,死んだ娘イーヴリンと共に生きる夫婦の幻想の世界に取り込まれた若い男女を描いている。その幻想を共有する土俵に乗らなければ,見えないものがある。語り手のエマ夫人は,徹頭徹尾部外者であり,その批判者であるが,その幻想についてのさまざまな思いを聞いてやる立場でもある。それを聞くものがいなければ,その幻想は自己完結しているので,外には漏れ出ない。エマ夫人は,意図せず,うつつと幻の橋渡し役になっている。

ここで,「噓」というものが,当事者にとって真実である限り,それを噓と決めつける根拠が失せるということを示している。

本書の著者は,『ねじの回転』等々で知られているが,丁度神の視点から,作中人物の視点へと,作品のパースペクティブを転換する先駆者と言われる。その意味では,「噓」という私的なパースペクティブで語るには,絶好の素材に見える。しかし,ところどころ,上の視点の作者がポロリと出てくるのはご愛嬌だろう。『嘘つき』の中に,

「この点についてのライアンの関心は愚かしくも独りよがりだと読者の目に映るかも知れないが,心に傷を受けている者はある程度大目に見てやらなくてはならない。」

とある。書き手(作家ではない)の声に聞こえる。

参考文献;
ヘンリー・ジェイムズ『嘘つき』(福武文庫)


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