2018年01月05日


村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む。

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何の間違いが,書棚の本を順次廃棄している中に,本書が出てきた。随分昔,『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』と,初期の作品を読んだ記憶があり,その軽快さと,反面のうすっぺらさが嫌で,以降読むのをやめたつもりだったが,調べると,本書は,その次の作品らしい。ずいぶん間を置いて,気まぐれに買ったものだと勘違いしていたが,三作読んで,その次というつもりで購入したまま,放り出していたものらしい。

かなり前なので,或は評価が確立しているのかもしれないが,今日どんな評価になっているのか,僕は村上をほとんど読まないので,全く知らない。知らない上で,自分なりの感想を勝手に述べて見る。

正直,くどいところもあるが,ストーリーはおもしろい。ときにハードボイルド,ときにSF,ときにファンタジー。しかし,それだけだ。やはり,うすっぺらな気がしてならない。蟹はおのれに似せて穴を掘る,というから,結局自分が薄っぺらだけなのかもしれないが,何か薄い,という印象をやはり拭えない。それと,どこかで見たような既視感がつきまとう。

基本的にファンではないので,斜に構えて読んだせいかもしれないが,あまりにも,

閉鎖的な,

そして,

自己完結した世界観,

に思える。要は,自分の中を,

メタメタメタ…化,

して見せた感じである。だから,

喩の上に(の中に)喩を載せ(あるいは容れ),さらにその上に(の中に)…,

という感じである。それは,ある意味,

ファンタジー,

であるし,

メルヘン,

である。書評家の大森望氏が,あるところで,

「現実的で論理的なのがミステリー、非現実的で論理的なのがSF、現実的で非論理的なのがホラー、非現実的で非論理的なのがファンタジー」

と整理されているとか,というのを目にしたが,その意味で,

夢,

と同じなのかもしれない。だから,筋自体は破綻していても構わない。構わないが,こう自分の中に,メタメタと入り込んで行ってしまうと,読者はおいてきぼりを食う。

この小説世界に浸れる人と,すっと身を引く人とに分かれるに違いない。僕は,後者だろう。僕には,誤解を恐れず,あえて言うなら,

何か高を括っている,

というふうに見えて仕方がない。社会とはこんなもの,人生とはこんなもの,自己とはこんなもの,心とはこんなもの等々,僕も多少高を括る癖があるので,偉そうには言えないが,何に対してかは分からないが,

見縊っている,

ように見える。それは傲慢というのではない,そういう感じは一切しない。それよりは,

自己完結,

させていることが,そう見えるのかもしれない。その外の世界について,

その喩,

で語り尽くせるはずはない。「喩」は,

メタファー,

である。世界を「喩え」で語っても,世界は語り尽くせない。しかし,それで完結させようとしている,というふうに見える。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163200.html

で触れたが,茂木健一郎氏は,村上春樹に言及して,

「双方向の行き来が盛んになるにつれて,翻訳可能なものだけが事実上の普遍性を帯びていくということは実際的な意味で不可避のダイナミクスだといってよい。村上春樹の作品が,最初から翻訳可能な文体で書かれていることは,意識されたものであるかどうかは別として高度に戦略的である。」

と言っていた。その真偽は知らない。また,その当否は,ここではどうでもいい。しかし,あの頻度の高い直喩は,たとえば,

「彼女の体には,まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいにたっぷりと肉がついていた。」
「進化途上にある魚のような気分で暗闇の中を上流へと向かった。」
「ひきちぎられた空の切れはしが長い時間をかけてその本来の記憶を失くしてしまったようなくすんだ靑だ」
「重機関銃で納屋をなぎ倒すような,すさまじい勢いの食欲だった。」
「彼女が一枚ずつ服を身にまとっていく様は,ほっそりした冬の鳥のように滑らかで無駄な動きがなく,しんとしたと静けさに充ちていた。」
「沈黙が銃口から出る煙のように受話器の口からたちのぼっていた。」
「インカの井戸クライアント深いため息をつき,」
「ウエイターがやってきて宮廷の専属接骨医が皇太子の脱臼をなおすときのような格好でうやうやしくワインの栓を抜き,」
「日曜日の朝の公園は飛行機が出払ってしまったあとの航空母艦の甲板みたいにがらんとして静かだった。」

等々,実に具象的なイメージが湧くように書かれている。それは,何語に置き換えても,クリアなはずだ。しかし,中には,その喩のイメージとその描写のシチュエーションがマッチしないものもある。あっても,たぶん気にならない。なぜなら,

喩の中の喩,

つまり,

現実からは切れた喩の中の喩,

でしかないからだ。それは,

現実の捨象の仕方,

と言ってもいい。

高を括る,

とは,この捨象の仕方を言っている。「計算士」「記号士」「組織(システム)」「工場(ファクトリー)」もすべて,喩である。その文脈の中では,「コンピュータ」も喩であり,「私」も「僕」も喩である。「博士」も「孫娘」も「図書館の女」も喩でしかない。何かについての喩えでしかない。しかし,喩えは,現実にフックがかかっていない限り,ただの抽象であり,肉体をそぎ落とした洗い晒した骨にすぎない。その意味で,

頭骨,

は象徴的である。しかし,そこに何かを深読みしても無駄である。すべては,洗い晒されているからだ。その意味でも自己完結している。それは,ある意味,

無国籍化した文体,

そのものが象徴している(この作品の文章を「文体」という言葉で表現するにはひどく抵抗あるが「文章」とは言えないので仕方ない)。

参考文献;
村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)
茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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posted by Toshi at 05:21| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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