2018年01月15日

非‐知


ジョルジュ・バタイユ『非‐知―閉じざる思考』を読む。

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本書自体が,講演速記,草稿,等々からなる断片の寄せ集めのせいか,全体像を摑むのが実にむつかしい。「非‐知」について,バタイユは,こう述べる。

「この非‐知という言葉でわたしが言おうとしていることをもう少し厳密な言えば,ある命題の内容を根底まで掘り下げようとするとき,そしてそのことに何かひっかかりを感じるとき,こうしたすべての命題から結果するもののことを言っているのです。」

バタイユは,A=J・エアー,メルロ=ポンティらとの議論の中で,「人間が生存する以前に太陽はすでにあった」という命題を巡って,物理学者(アンブロジーノ)が「太陽は世界より先には存在しなかった」と言い,エアーが「人間が存在する以前に太陽はすでにあった」と言う,そういう発言に対して,

「どうしてそういうことが言えるのかわかりません。この命題は,道理に敵った命題が完全な無-意味を呈することがありうる,ということを示すものです。誰しもが共有しうる真理は,発せられている命題には原則として主題と対象とが潜在的にふくまれているという意味での,全体的意味を備えていなければなりません。ところがこの命題では,太陽はあったけれども人間はいない,つまり主題はあって対象がないわけです。」

ここでバタイユが言っている「ひっかかり」は,

「どこか精神的にひっかかり,不安定な気分にさせる。」

というものを指す。

このとき,バタイユがひっかかっているのは,訳者(西谷修氏)が,ヒロシマをめぐって(バタイユの『性の苦悩からヒロシマの不幸へ』を引きつつ)こう言っていることと照応する。

「核兵器についてもちうるさまざまな知識,それを生み出した知,その効能について,用途について,さらにその惨禍についての知と,実際には『ヒロシマ』を生きた人びとの置かれた『動物的な無知』(世界了解の構造が解体され,もはや,『人間的』反応を維持することさえ難しくなる)との暴力的な懸隔の前に茫然自失している。…ひとは何でも知的に理解することはできるが,それは極端な『無知』をともなって実現され,生きられるこの『無知』の闇の前には知は完璧に無力なのだ。
 非-知とはそういう事態であり,現代の知の,常に隠蔽される根本的な条件なのである。」

人のなかにある「ひっかかり」を無視すれば無視できる。しかし,その翳を,バタイユは徹底的に追い詰めようとしているように見える。

「わたしはかの問い,いうなればハイデガーの建てたあの問い(なぜ存在があって,無があるのではないのか?)の前に立たされるのです。わたしとしては,この問いは不十分だとずっと以前から考えていたので,もうひとつ違うかたちで問いを発してみようとしました。つまり,なぜわたしの知っていることがあるのか,という問いです。最終的にはこのことを完全なかたちで言葉にすることはできないと思っています。とはいえ根本的な問いは,いかなる定型表現も不可能となるそのときから,人が沈黙のうちに世界のうちに世界の不条理を聴きとるそのときからしか提起されえないものだと思います。
 わたしは何が認識可能かを知るためにあらゆる手立てを尽くしましたが,私が求めたのはわたしの奥深くある言い表わしえないものなのです。私は世界の中のわたしですが,その世界はわたしにとって気の遠くなるほど近づきがたいものだと認めています。というのも,わたしが世界と結ぼうとしたあらゆる絆の中に,何か克服できないものが残っており,そのことがわたしをある種の絶望にとり残すからです。」

それを,

「鍵をかけたトランクの中に何があるかを知らない,その鍵を開けることもできない者の立場」

になぞらえた。しかしサルトルは,

「何も知らないのなら,知らないと一度言えばそれでたくさんだ」

というだけだと,バタイユは,サルトルとの差を表現する。それは,

「何かを求めながらそれが手にはいにらないだけの絶望とは較べようのない完璧な絶望のうち」

と喩える。

「それはわれわれが通常味わう絶望,何かの企てが念頭にあってそれが実現できないとか,本質的には欲求の対象に執着するあまり欲求不満に苛まれるといったことに由来する通常の絶望より,遥かに深い絶望です。」

なぜなら,

「わたしが何も知らないと主張しうるのは,ただわたしがいっさいを知り尽くしたと仮定した場合だけであり,わたしが非‐知に辿り着いたと決定的に主張しうるのは,この言説的知(絶対知)をわたしが所有したときだけでしょう。事物を不正確にしか知らないうちは,いくら非‐知だと言い張っても,それは空疎な主張にすぎません。私が何も知らないのであれば,言うべきことは何もないわけです。わたしは口を閉ざすでしょう。」

であり,サルトルの言っている「知らない」とはこれを指す。これは,死,笑,戯れ等々に喩えられる。

「死を思い描いてみることはできます。思い描きながら同時にその表象が正確でないと意識することもできます。死に関しては,われわれが何を言おうとも何がしかの錯誤がついてまわります。とりわけ死に関する非‐知も,一般的な非‐知と同じ性質をもっているのです。」

「死にうるために生きる。歓ぶことを苦しみ,苦しむことを歓ぶ,もはや何も言わないために語る。『非』とは,知らないことの情熱的受苦を目的とする―ないしはみずからの目的の否定とする―ある認識の媒介項である。」
「大いなる戯れとは非‐知だということ―戯れは定義できない,思考の崩壊しえないものだ。」
「われわれが笑うのは,ただ情報や検討が不十分なためにわれわれが知るに到らないといった性質のもつ何らかの理由のためではなく,知らないものが笑いを惹き起こすからこそ笑うのです。」
「ただ少なくとも,笑うときにはいつでも,われわれは知っているもの,予測可能なものの領域から,知らないもの,予測不可能なものの領域に移行しているときだということを示すことはできるでしょう。」

等々,そしてバタイユは,

「まず笑いの体験から出発し,この特殊な体験からそれに隣接する聖なるものや詩的なものの体験に移るとき,笑の体験を手放さずにいることができるのです。そう言ってよければそれは,笑いという与件の中に,哲学の中心的与件,第一の,そしておそらくは最後の与件を見出す」

として,自分のやっているのが哲学とすれば,

笑の哲学,

だと言い切る。その背景にあるのは,

「知はわれわれを隷属させるもの」
「意識は限定された対象についての意識であり,したがって対象の限界が否定(あるいは破壊)されてしまえば対象意識はあり得ない。対象の限界,あるいは対象としての主体の限界が否定されてしまうと,そのときから意識は夜に入る。あるいはむしろ,意識は,対象の限界の否定(ないし破壊)を限界(定義)としてもつ対象意識となる。つまり,意識の作用が限界の不在を新たな限界に,対象の破壊の起こる場である対象を新たな一種の対象に,非‐意味を新たな意味に,取って代えるのだ」
「意識とは他でもない限界の意識だからだ。意識はまるまる規則の側にある。意識が欠落すれば,そのときはじめて哲学は端緒につくことができるだろう。」

だから,

「神,聖なるもの,エロティックなもの,笑いを惹き起こすもの,詩的なもの,等々未知のものと同一視することが,いっさいの哲学的困難を解く鍵である。」

とするのである。それにしても,

「わたしの言う非‐知の体験の中に宗教的体験が残っているとしても,それは将来への配慮からはまったく切り離されており,その体験が命ずるような起こりうる威嚇的な苦痛からもまったく切り離されており,それはもはや戯れでしかないのです。」

とあるのを読むと,次元は異なるかもしれないが,どこか最後,非‐知は,知を突き抜けた愚になっていくように見える。そのとき,良寛のことを思い出した。しかし,バタイユは,

「(照らされた)明るみと(照らす)光の地帯について語ること,それが知と非‐知とを乗り越えること」

というような,メタ哲学を手放してはいない。そして,良寛は知を閉じて完結させているとすれば,バタイユのそれは,けっして閉じない,あるいは諦めない知,ではあるけれど。

参考文献;
ジョルジュ・バタイユ『非‐知―閉じざる思考』(平凡社ライブラリー)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:15| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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