「みかん」は,
蜜柑,
と当てる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%B3
によれば,「みかん」は,
ウンシュウミカン(温州蜜柑、学名:Citrus unshiu),
を指す。
「『冬ミカン』または単に『ミカン』と言う場合も、通常はウンシュウミカンを指す。」
とある。
「甘い柑橘ということから漢字では「蜜柑」と表記される。古くは『みっかん』と読まれたが、最初の音節が短くなった。『ウンシュウ』は、柑橘の名産地であった中国浙江省の温州のことで、名は温州から由来する。つまり、名産地にあやかって付けられたもので種(しゅ)として関係はないとされる。」
ただし,
「中国の温州にちなんでウンシュウミカンと命名されたが、温州原産ではなく日本の不知火海沿岸が原産と推定される。農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。鹿児島県長島は小ミカンが伝来した八代にも近く、戦国期以前は八代と同じく肥後国であったこと、1936年に当地で推定樹齢300年の古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400 - 500年前に発生したと推察される。中国から伝わった柑橘の中から突然変異して生まれたとされ、親は明らかではないが、近年のゲノム解析の結果クネンボと構造が似ているとの研究がある。」
というので,今日の「みかん」の原産地は,
鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町)
である。『日本語源広辞典』
http://gogen-allguide.com/u/unsyuumikan.html
は,「温州蜜柑(うんしゅうみかん)」について,
「室町 時代末期から『温州橘(うんじうきつ・うんじゅきつ)で見られ、江戸時代から『温州蜜柑』 や『唐蜜柑』と呼ばれている。『温州』は中国浙江省の地名で、みかんの中心的産地 として知られる。しかし、原産は鹿児島県出水郡長島町と考えられており、中国には同じ品種が存在しないことから、原産地に由来する名ではなく、遣唐使が温州から持ち帰った種(もしくは苗)から突然変異して生まれたため、この名が付いたと考えられている。
新品種はDNA鑑定の結果からクネンボと考えられ、クネンボの伝来が室町時代で時代的にも合うため間違いないと思われるが、クネンボは沖縄を経て伝来しているため、遣唐使が温州から持ち帰ったために付いた名ではなく、みかんの原産地として有名であった『温州』にちなんだだけとも考えられる。
アメリカでは『Mikant(ミカン)』の名称のほか、薩摩から渡ってきたため『Satsuma(さつま)』とも呼ばれる。また、ナイフで皮を剥くオレンジと違い、温州みかんはテレビを観ながらでも食べられることから、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどでは『TVorange(テレビオレンジ)』の愛称がつけられている。」
と詳しい。
(日本産のウンシュウミカン )
因みに,「クネンボ」とは,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%B3%E3%83%9C
に,
「クネンボ(九年母、学名:C. reticulata)は、柑橘類の一種。沖縄県ではクニブーと呼ばれる。
東南アジア原産の品種といわれ、日本には室町時代後半に琉球王国を経由しもたらされた。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭、テレピン油臭)がある。果実の大きさから、江戸時代にキシュウミカンが広まるまでには日本の関東地方まで広まっていた。」
とあり,
「2016年12月には、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)果樹茶業研究部門が、DNA型鑑定により、ウンシュウミカンの種子親はキシュウミカン、花粉親はクネンボであることが分かったと発表した。」
とある。また,
http://www.yaoyasan.info/hpgen/HPB/entries/42.html
には,「みかん」の
「『栽培』ということになると、最古の記述は紀元前22世紀頃、中国でのことです。…その頃には既に『柑橘系』の概念が生まれていたとのこと。様々な植物の栽培方法や種類などを記した栽培史のひとつである橘誌には、品種別けや特性なども詳細に表されていました。中国との国交が盛んであった日本においても、柑橘類は日本書紀や魏志倭人伝にその名が記されています。しかしまだまだその頃のみかんは現代のものとは違い、酸っぱさが優っていたものでした。」
ともある。
さて,「みかん」は,
ミカン科ミカン属,
原産地:日本(鹿児島),
ということになる。『日本語源広辞典』は,
「『ミ(蜜・甘い)+カン(柑子・コウジの木)』」
が語源とし,
「古く,コウジ,タチバナといいました。」
とある。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/mi/mikan.html
は,
「みかんは、1603年の『日葡辞書』に「miccan」と表記されているように、古くは『ミッカン』と発音されていたが、促音の『ッ』が省略され『ミカン』となった語である。 室町時代に中国 から伝えられた品種が、それまであった柑橘類とは異なり甘かったことから、蜜のように 甘い「柑子(カンジ・コウジ)」の意味で『蜜柑』の語が生まれたと思われ、室町時代から『 蜜柑』の文字は見られる。」
『日本語源大辞典』は,
ユカン(柚柑)の訛りか(古事記伝),
その味からミツカン(蜜柑)の義(古今要覧稿),
と挙げた上で,こう述べている。
「①この類については,古く『柑子』が伝来し,『かうじ』という字音語でよばれ,中古・中世,『今昔物語』や『徒然草』に見られるように,おいしい果物として大切にされていた。後に『蜜』のように甘い果汁の新品種が伝えられ『蜜柑』と呼ばれたが,『看聞御記-応永二七年』によると,足利義持の好物である蜜柑を病気見舞のために手を尽くしたけれどもなかなか数をそろえられなかったといっている。②当時はミッカンと音読することが多く,時に促音を省いてミカンともよばれたのであるが,次第にミカンの形の方が一般化する。」
と。なお,『たべもの語源辞典』は,
「漢名は柑,また柑子・柑橘・金囊・水晶毬・金苞・洞庭子・瑞金奴などの異名がある。…古くは柑子・むかしぐさ・とこよもの・ときじくのかぐのこのみ。また禁中の女房ことばでクダモノとは蜜柑のことであった。」
とし,
「『日本書紀』には,垂仁天皇が田道間守(たじまもり)を常世の国に遣わして非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせた。間守は往復一〇年を費やして帰ってくると霊果の種を御陵の傍に播き,七日七夜泣き暮らして遂に事切れた。時人がその誠忠に感じて,芽生えた樹に田道間守の名を冠し,タヂの花と称したのがタチバナとなったという。菓子職の人は橘を印とし,果祖として田道間守を祀った。昔は蜜柑の名はなく,橘と唱えられた。それがいつしか蜜柑と変り,現在では橘といえば原種に近い柑子に限られることになった。蜜柑の文字は鎌倉時代までの文献には見当たらない。永享から寛正五年まで(1429-64)につくられた『尺素往来』一条兼良著と伝えるものに,蜜柑と出るのが初めらしい。よみはミツカンである。ミカンのよび名は『文禄四年御成記』(1595)に出る。紀州の有田蜜柑は天正二年(1574)に肥後国八代から小木を持ってきたとある。紀州蜜柑が江戸に送られたのは寛永十一年(1634)で,滝が原村の藤兵衛という者が,蜜柑四〇〇籠ほどを廻船に積み合わせたところ,一籠半が金子一両の値で売れた。大利を得て帰国したという。紀州蜜柑には,明恵上人の伝記にからむ話がある。上人は,髙弁大僧正で栂尾に茶の実を蒔いて茶樹栽培を始めた名僧(1232年,60歳没)であるが紀州在田(有田)郷の生まれである。上人の両親は熱心な仏教信者であったが,不幸にして子がなかった。それで仏さまに子を授けてほしいと祈っていたが,ある代の夢に異人が柑子(ミカン)を授けるのを見て程なく上人を生んだという(『元享釈書』)。これから考えると鎌倉時代以前にミカンがあったことになる。…蜜柑のもとである柑子が中国から日本に渡来したのは『続日本紀』にある聖武天皇の神亀二年(725),播磨の直(あたい)兄弟が柑子を唐国から持ってきて中務少丞佐味虫麿がその種を植えて子を結んだのが初めである。ミカンの語源は,柑子の甘いものを蜜柑と称し,ミツカンと呼んだが,これがミカンとなる。ユカン(柚柑)の訛りかという説はよくない。」
としている。どうやら「蜜柑」の訓みの,
ミツカン→ミッカン→ミカン,
と転訛していったと見るのが妥当なのだろう。
参考文献;
https://www.kudamononavi.com/gallerys/view/id=7392
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%B3
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1