虎嵎を負う
「虎嵎を負う」(とらぐうをおう)という言い回しがある。見たのは,石川淳『森鷗外』である。
「自分のみじんまくはとうにどこかで附けておいて,外部にむき直ったひとのことばである。作者は檀上に立って咆哮する徒ではないが『北條霞亭』に至るまでの生涯の大事業が陰然とうしろに聳えている。あたかも嵎を負う虎である。」(「古い手帳から」)
因みに,「みじんまく」とは,東京方言(江戸方言かも知れない)という。
身慎莫,
とあてて,
身なりを整えること,とある。みじたく,
と『デジタル大辞泉』にあるが,『江戸語大辞典』にも載り,
身の始末,
の意である。単なる身づくろいではあるまい。「身の始末」という言い方が,この場合ふさわしい。
「嵎を負う虎」は,一般には,
虎嵎を負う,
という諺として使われる。出典は『孟子』である。前に読んだときには,あまり引っかからず,流したらしい。
「嵎」の字は,
「『山+音符禺(グウ)』で,窪んだ山のくま」
で,隅(すみ),寓(隅に引っ込んだ仮住まい)と同系,とある。
くま,山のくぼんだすみ,
とある。「くま」は,
隈,
道や川などの湾曲して入り組んだ所,
という意味である。
奥まって隠れたところ
という意味だが,「隈」字は,
「禺(グウ)は,頭の大きい人まねざるを描いた象形文字で,似たものが他にもう一つある,の意を含む。隈は『阜(土盛り)+音符禺』で,土盛りをして□型や冂型にかこんだとき,一つ以上同じような角のできるかたすみ」
を指す。
「虎嵎を負う」は,『故事ことわざ辞典』には,
「(『嵎』は,山の折れ曲がった,山ふところのようなところ)虎が山ふところを背にして身構える。英雄が一方に割拠して威力を示すことのたとえ」
とある。
http://nekojiten.com/kotowaza/tora/toraguu.html
には,
「虎が山の一角を背にしてかまえる。転じて、勢力のある英雄が一地方にたてこもって勢いを振るうたとえ。また、非常に勇猛なさま。」
とある。この方がわかりやすい。いわば,ただ,
虎が山の一角を背にしてかまえる,
という状態表現に過ぎなかったものが,それを,転じて,
非常に勇猛なさま,
という価値表現に変えたということだろう。この「負う」は,
http://gaus.livedoor.biz/archives/24229536.html
によれば,
何かを背後にして頼みにする意味,
になる。
実は,『孟子』の原文は,「盡心章句下」23にあり,斉で飢饉があり,陳臻(ちんしん)が,前に先生がしてくださったように,王にすすめて米蔵を開いて,施米をして下さるだろうと頼みにしていますが,二度は出来ないことなのでしょうか,と尋ねたのに対して,孟子が答えた中に出てくる。
孟子曰く、是れ馮婦(ふうふ)を為(まね)するなり。晉人に馮婦といえる者あり,善く虎を搏(てうち)にせり。卒(のち)に善士と爲りて野に之(ゆ)けるとき,衆虎を逐(お)えるあり。虎嵎(ぐう)に負(ちたの)み,敢て攖(ちか)づくものなし。馮婦を望み見て,趨(はし)りて之を迎う。馮婦臂を攘(かか)げて車を下る。衆皆之を悦びしも,其の士たる者之を笑えり。
ここでは,馮婦の,
嵎を負う虎,
に素手で立ち向かう振る舞いを喩えに,二度もそんな振る舞いは出来ないと言ったにすぎない。しかし,この孟子が喩えで言わんとしたのは,
馮婦と同様に素手で虎に向かうようで,とうていできない,
という意味なのか,
馮婦と同様に素手では,虎に向かうことははできない,
という含意を込めたものなのか,『孟子』の訳注者(小林勝人)は,括弧つきで,
「(今更このわしが施米をすすめたとて,どうなろう。馮婦の二の舞は御免だ)」
と,訳に付け足している。しかし,もう少し含みのある喩えに思える。
ところで,馮婦の「嵎を負う虎」に向かう振る舞いに,孔子の,
暴虎馮河,
を思い出す。
暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり」
と。昨今の勇ましい暴虎馮河な連中に聞かせたいものだ。
参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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